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諸葛瞻と閻宇は何をしたかったのか?

1 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/04(木) 18:26:22
閻宇(エンウ)。

キョウイが北伐してるときに対呉を担当してた人。
おそらくキョウイに次ぐ将だったはずなのに三国志正史蜀書には
エンウの伝は一切なし。諸葛センが反キョウイに周りキョウイと
エンウを交代させようとした時に名前だけ出てきた人物

このエンウが何を考えていて、どのような人物だったかが分かれば
蜀末期の事情が浮き彫りになると思いたててみた。

300 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/01(土) 19:14:22
>>293
実は費褘の許可を貰って大軍で出撃する予定だったんですぅ
とかいうよりは可能性はあるだろうけど

蜀に残っていた費褘の評判を考えれば
彼の暗殺に黒幕がいたなら全く表に出てこないことはないだろうから
さすがに蜀内部に黒幕がいた可能性は低いと思う
(姜維が単独で仕掛けたのなら言うまでもなく
仮に成都と結んでいたとしても相手は陳祇あたりだろうから
誰も批判しないと言うことは考えにくい)

301 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/02(日) 03:47:06
蜀は史官が居らず政策についても記録が残って居ないために資料が少ない…とか、
何を馬鹿なことをと思ったが
民主党が与党の国会も議事録や委員会における動議について記録残してないんだってなw

302 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/02(日) 11:02:32
上庸から攻めようぜ

303 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/02(日) 14:49:29
>>302
蒋エンが計画したけど、計画段階で挫折した。

304 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/02(日) 15:13:55
劉備が死んだ時とか孔明が死んだ時って
魏で「今がチャンスだから攻めよう」みたいな話があったけど
ショウエンとかヒイが死んだ時ってあったのかな?

特にヒイなんて暗殺されてるわけだから蜀の国内ガタガタだって
宣伝してるようなものだし。
鎌倉幕府も実朝が暗殺された時にチャンスと思われて攻められたよね。

305 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/02(日) 16:57:57
>>304
特になかった。劉備・諸葛亮と蒋エン・費イじゃ存在感が違い過ぎるし、
死んだところで国内が混乱するほどの独裁体制敷いてたわけじゃないから。

306 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/02(日) 19:27:25
ショウエンヒイ時代からすでにキョウイの名が
轟いてたって可能性はないかな?

魏にしてみたらヒイとかの慎重派がTOPの方が
やりやすかったけどキョウイみたいな好戦派
に実権握られるのは恐怖だったとか。

307 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/02(日) 19:35:35
轟いていたかはしらんけど、姜維は費イ時代の北伐総司令官だから
当然郭淮らは姜維を相手にして戦略を考えていただろう。
それでもって姜維は費イが死んだ年のうちに兵力を増強させた侵攻を行っているわけだから
魏が逆侵攻する暇もない。

308 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/04(火) 00:43:35
夏侯覇だけじゃなく夏侯玄も亡命してたら重用されてたろうに

309 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/04(火) 00:47:27
>>308
夏侯玄って議論と名声だけで実務能力ないやん。
そんな奴に亡命して来られても役に立たんわ。
せいぜい名誉職の九卿ぐらいじゃね?

310 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/04(火) 00:52:46
政策立案と宮廷運営能力

311 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/04(火) 01:31:36
世語にいう。夏侯玄は世間から人を見る目があると評価されていた。
中護軍になると、武官を抜擢し登用したが、軍門に集う武士は俊英・豪傑ばかりとなった。

312 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/04(火) 03:05:19
玄なんてきちゃったら扱いかねて殺害してたような気がする

313 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/04(火) 03:18:50
敵国の皇族なんてこれ以上無い宣伝材料だぞ
覇の代わりに車騎将軍かそれ以上は確実

314 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 03:47:58
蜀末期ってそんなに人材って不足してたのかな?

315 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 05:17:16
30年前に死んだ諸葛亮時代の生き残りが軍部と政府のトップに立ってて、
それ以降の時代に育った人材はほとんど伝が立った人物がおらず、
名前のみの登場。若手や中堅の層はかなり薄かったんでない?

316 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 06:28:09
軍の人材は悲惨
ケ芝と宗預が互いの年齢が70超えてることを皮肉ってる
張翼も最後まで現役だったし
魏呉の健全な世代交代ぶりを考えると悲惨なんてもんじゃない

317 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 07:11:03
>>315,>>316
人材そのものがいなかったわけではないだろうから
可能性1:名を上げる前に異民族との戦いで戦死した
可能性2:名を上げる前に北伐で戦死した
可能性3:名を上げる機会もないまま国が滅びた
可能性4:名を上げても抜擢してくれる者がいなかった
どれだろ

318 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 08:15:37
3だろうな
滅亡時には新たな人材が輝きを放ってはいるんだよ
羅憲とか柳隠とか
しかし、彼らが北伐に同道することは無かった
将軍というのはエリートだ
何より従軍経験がなければ大兵を与えられる事は無い

蜀には人は居ても育成される土壌が無かったんだろう

319 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 09:09:51
分母となる人口が少ないとか、そもそもの
抜擢システムに問題があったとかそういうのもあるだろうね
魏の場合は司馬氏の作り上げた抜擢システムの恩恵をモロに
受けてるし


320 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 19:46:45
>>315
亡国に立ち会った臣は滅多なことでは伝が立たない。
特に晋に仕えた時点で、普通は資格を失う。
姜維はともかくとして、ショウ周は明白なほどの陳寿の私情。
紀伝体上の記述の濃淡から人材の厚さを伺うのは拙い。

321 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 20:12:39
>>318
でも姜維自身、あまり人材育成には向いてないタイプかもとは思う
たとえ兵力のプールに余裕があったとしても
実戦指揮官を何人も投入して広範囲での作戦行動よりも
手足のごとく鍛え上げた少数精鋭での遊撃を主にしてたっぽいから

そうなると段谷の敗戦が大きな痛手になるんだよね
あれで姜維が手塩に掛けて育てたであろう実戦司令官や
北伐以来の古参兵たちの殆どが討たれたって話だし

やっぱり戦術家はいても大局で国家運営が出来る
政略・戦略家がいなくなってしまったというのが
最終的には命取りになったのかも

322 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 21:09:01
>>315
軍の中堅どころは敗軍の将であり、功績を立てる機会もなかったのだから
名前が残らないのも仕方がないだろう。
ただ晋書や華陽国志をよめば、有為な人材は結構いるよ。
280年の呉の平定戦で活躍してたりね。

323 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 21:22:17
>>320
伝が立たない理由はわかったが、
しかし、諸葛亮世代の次の世代の文武官で、
蜀時代に活躍した記録のある人物がほとんどいないのは、
やはりこの世代の層が薄かったからではないか?

>>322
功績を立てる機会なら、文官なら政治の実務や議論で、
武官なら反乱鎮圧や地方鎮撫や姜維の北伐などで十分にあったはず。
名前が残ってないのは、それに値する活躍をした人物がいないからではないかと思う。
蜀にいた時代に功績を挙げてて、晋につかえてからも功績を挙げた、
晋書や華陽国志に載っている人物がいたら是非教えてほしい。
呉の平定戦で活躍した蜀の旧臣とかいたら嬉しい。

324 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 21:26:50
>>323
「諸葛亮の次の世代の文武官」ってのは、結構高い確率で蜀滅亡まで生きている世代だよ。
姜維が筆頭。
逆に、滅亡前に死んだ人間は立伝もされているし、記述も多い。

325 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 21:55:17
蜀は北伐を繰り返してきたんだから
他国より実戦経験豊富な人材がいっぱいいると思うんだけどね。


326 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 22:37:13
ハード面の国力、戦力は北伐連打と段谷でジリ貧
ソフト面の指導力は黄皓、諸葛瞻、董厥、樊建のおかげでgdgd
技術力に関しては蜀が最後まで一番なんじゃないかなとは思うが

これでは人材がいても滅ぶ、ということはいなかったのと同じことではないの。

327 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 22:42:24
>>321
そういう連中の存在と支持が
姜維の発言力の源泉でもあったんだろうね

328 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 22:45:09
>>323
ああ、誤解させてすまんかった。
俺が言いたかった「諸葛亮の次の世代」というのは、
「諸葛亮の時代の次の世代」。
つまり、諸葛亮に抜擢された連中の次の世代のことだわ。
姜維の次の世代だな。蜀末期の国の屋台骨を担っていたはずの
この世代の人物の記録がやけに少ないことが気になって仕方がない。

329 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 22:50:09
そういや段谷で死んだ主な武将について
具体的な名前はあります?
でも、考えてみれば赤壁だってあれだけの大敗北にも関わらず
曹操軍の主だった武将は全員生還してるんだよね

330 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 22:55:24
赤壁で死んだのは劉表系の人間だったんじゃないかな
それだとしても規模だけなら呉より上だろうし

331 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 22:56:17
>>326
まぁ、末期は挙国一致とは言い難い状況であったことは確か
もう姜維を排斥して引きこもるか
逆に姜維がクーデターでも起こして実権を掌握するか…
陳シがいたころは彼が宮廷を押さえててくれたわけだけど

そう考えると段谷以降の姜維の行動は
自らの影響力を高めるため、疲弊を度外視しての行為にも思える
とにかく一戦でもいいから勝利を、結果を…みたいな

でもそれは成都に見透かされてて、実際の蜀征伐の際
救援要請を握りつぶされることに繋がったのかなと

332 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 22:59:58
>>328
それだとなおさら蜀滅亡直撃世代じゃないか。
しかも、当時30-40代では記録が記されるような地位まで昇りようがない。
人の功績というのは、死んだとき、または退官したときの収支勘定で決まる。
最終的に高官となり、大きな功績を立てたと認められた人物だからこそ、
まとまった記録が編纂され、その若い頃に遡って、「こんな活躍もしてました」と書かれる。
幅広い世代の記述が少しづつずれながら重層的に書き記されることで、短い一時代の様相がやっといくらか立体的に見えて来る。
若い世代が高官に昇る前に国が滅びると、これがぶつ切りにされてしまう。

これと>>320が、亡国に「若い人材が育っていない」「小粒な人材しかいない」ように見える大きな理由。
もちろん、一般論として、有能な人材が出世するシステムが麻痺したから国が滅んだ、というのは大いにあり得るけどね。
個別の国々に適用されるかどうかはまた別の話。

333 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 23:12:23
>>328
その世代的空白を埋めるのは親の権力基盤を受け継ぐ
二世・三世武将たちなんだけど
彼らが2国に比べてことごとく早世、あるいは能力不足だったというのも
人材払底の原因かも
諸葛瞻にしても本来なら姜維と共に戦ってなければならない立場だしねぇ

諸葛恪や陸抗・丁封・鐘会・陳泰・賈充らに比べると…

334 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 23:17:46
諸葛瞻はアレだ…いつまで経っても監督になれそうにない
国民栄誉賞の人みたいな立場だったんじゃないのか?

335 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/07(金) 00:09:12
タイヤ、エンジン、ホイールは優秀でも
ステアリングが微妙だったみたいな

336 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/07(金) 00:33:51
ヘタに役職に就けるとボロが出たとき
経歴に傷がつくってやつでしょ

337 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/07(金) 00:38:52
>>333
× 鐘会
○ 鍾会

なんだってよ。俺も今までそっちだと思ってたが

338 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/07(金) 14:38:09
>>333
世襲による権力の移譲がスムーズにいかなかったのは
夷陵で荊州以来の旗本・譜代たちがほぼ全滅したのも大きいかもね

339 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/08(土) 00:32:02
羅憲が推薦した人達って、蜀時代は冷や飯?
それとも単に若造だから出番無し?

340 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/08(土) 01:32:18
羅憲が閻宇に拾われたいきさつを考えると冷や飯組じゃないかな

341 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/08(土) 04:33:11
>>333
そもそも受け継ぐべき基盤が荊州出身者にはないんじゃ…

342 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/08(土) 12:53:41
>>340
羅憲は太子舎人〜中庶子〜尚書吏部郎〜宣信校尉なんだから、中堅エリート官僚。
地方に左遷されたのは冷や飯と言えるけど、中央に残っていても高位高官ではなかった。
>>339
なので、冷や飯以前に若手〜中堅だから活躍する場がなかったんだと思う。

羅憲が推薦したのは常忌・杜軫・寿良・陳寿・高軌・呂雅・許国・費恭・諸葛京・陳裕。
三国志や華陽国志などから、彼らの蜀末の官職を書きだすと、

常忌(謁者、黄門侍郎、長水参軍、什邡県令、雒県令。父の常閎は漢中、廣漢太守)
杜軫(蜀郡功曹。譙周の弟子。父の杜雄は安漢、雒の県令)
寿良(州従事,散騎、黄門侍郎。父祖二代が犍為太守)
陳寿(観閣令史。黄皓におもねらず罷免)
高軌(不明。高翔あたりの子孫か?)
呂雅(謁者。呂乂の子)
許国(不明。本籍が南陽なので、許慈の子孫か?)
費恭(費イの次子。嫁は皇族。年齢的にも要職にはなかったのでは?)
諸葛京(諸葛尚の弟。蜀末にはおそらくまだ10代)
陳裕(陳シの次子。黄門侍郎)

343 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/12(土) 23:18:32
こういうスレって急に人が消えるよな

344 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/13(日) 00:00:41
あげるか。

議題は閻宇の右大将軍が、右将軍のバージョンアップ版なのか、
車騎将軍が左右に分かれて設置されたように、
大将軍も実は左右に分かれて設置されてて、
そのうちの右大将軍なのか。

345 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/13(日) 11:03:04
大将軍を左右に分かれて設置のような気瓦斯

346 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/13(日) 11:52:25
てことは、姜維は左大将軍?最初は単独で大将軍だったのに降格だな。

347 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/14(月) 19:00:38
そういや昔むじんさんのトコでこの件について見た事あるな。

衛将軍(諸葛瞻)だけはノータッチだったのかな?

348 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/14(月) 20:09:54
呉側の史料で右将軍とされているものがあるから、右将軍に大を加えた者でいいだろう。

××大将軍や××左(右)将軍を省略して××将軍と書かれることはあるし、
それと思しき左右(大)将軍の例は後漢初期にある。

が、大将軍や驃騎・車騎将軍の左右分割を「左将軍」「右将軍」と省略してしまったら意味が通らない。

閻宇が、右将軍 → 左右分割大将軍 と昇進した可能性は残るが、
衛将軍諸葛瞻より高位と考えられる左右分割大将軍を漢中に派遣してしまったら、
漢中府の軍閥化解消という目的が徹底を欠くし、閻宇が左右車騎と衛将軍を越える格の持主だったとは
考え難い。

349 :無名武将@お腹せっぷく:2010/06/17(木) 01:04:14
閻宇はライ降都督から永安都督だから、諸大将軍でもおかしくない格。
しかし、永安都督に大将軍はいくらなんでも格が高すぎ。
右将軍の大将軍と考えれば、永安都督としてはまあ妥当な格だな。

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