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三国志好きな俺が資治通鑑晉紀を呉が滅亡するまで訳し続けるスレ

1 :ヽ┃・∀・|ノ :2010/02/11(木) 19:25:14
資治通鑑晉紀を呉が滅亡するまで訳し続けるてすつ

訳の鉄則
1.分からん箇所は訳さず飛ばす。
2.あやふやな箇所は訳さず飛ばす。
3.気力の限り訳し続ける予定だが途中逃亡しても勘弁な。

底本:元の底本がサルベージ出来なくなったので参考サイト↓
http://zh.wikisource.org/wiki/%E8%B3%87%E6%B2%BB%E9%80%9A%E9%91%91/%E5%8D%B7079

2 :ヽ┃・∀・|ノ :2010/02/11(木) 19:27:38
そんなわけで西暦265年から始まるのだ
2げと?

3 :ヽ┃・∀・|ノ :2010/02/11(木) 19:32:56
   世祖武皇帝上之上 泰始元年(乙酉,西暦265年)
 春,三月,呉主が光祿大夫の紀陟、五官中郎將の洪璆と<与>徐紹、孫ケを使わし
偕來させてきたため報いて聘した。徐紹が行って濡須に至ったところで,徐紹は中國の
美を誉めたと言う者が有ったことから,呉主は怒り,還るのを追いかけて,之を殺した。
 夏,四月,呉は甘露と改元した。
 五月,魏帝は文王に殊禮を加え,王妃を進めて曰く后とさせ,世子は曰く太子とさせた。
 癸未,大赦した。
 秋,七月,呉主は景皇后を逼り殺し,景帝の四子を呉に遷した;尋くして又た其の長じ
ていた者二人を殺した。
 八月,辛卯,文王が卒し,太子が嗣いで相國、晉王と為った。
 九月,乙未,大赦した。
 戊子,魏の司徒である何曾を以って晉の丞相と為した;癸亥,驃騎將軍の司馬望を
以って司徒と為した。
 乙亥,文王を崇陽陵に於いて葬った。
 冬,呉の西陵督である歩闡が上表して呉主に都を武昌に徙すよう請うた;呉主は之に
從おうとし,御史大夫の丁固、右將軍の諸葛靚を使て建業を守らせた。歩闡は,歩騭の
子である。

4 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 19:42:10
 十二月,壬戌,魏帝が晉に位を禪譲した;甲子,出て金墉城に捨した。太傅の司馬孚は辭を
拝すと,帝の手を執り,堪え切れなくなって涕を流して歔欷して,曰く:「臣が死ぬ日は,固より
大魏之純臣としてでございます也。」丙寅,王(司馬炎)は皇帝位に即き,大赦し,改元した。
丁卯,魏帝を奉じて陳留王と為し,宮を鄴に即けた;優崇之禮(もと魏の皇帝に対する晋の礼
遇)については,皆仿ち魏の初めの故事とした。魏氏の諸王は皆降って候と為った。
宣王(司馬懿)を追尊して宣皇帝と為し,景王(司馬師)を景皇帝と為し,文王(司馬昭)を文
皇帝と為した。王太后を尊んで曰く皇太后とした。皇叔祖父の司馬孚を封じて安平王と為し,
叔父の司馬干を平原王と為し、亮を扶風王と為し、胄を東莞王と為し、駿を汝陰王と為し、
肜を梁王と為し、倫を琅邪王と為し,弟の攸を齊王と為し、鑒を樂安王と為し、機を燕王と為し,
又た群從司徒望等十七人を封じて皆王と為した。石苞を以って大司馬と為し,鄭沖を太傅と為
し,王祥を太保と為し,何曾を太尉と為し,賈充を車騎將軍と為し,王沈を驃騎將軍と為した。
其の残りの文武は位を増し爵を進めたが差が有った。乙亥,安平王の司馬孚を以って太宰
と為し,都督中外諸軍事とした。未だ幾らもなくして,又た車騎將軍の陳騫を以って大將軍と
為し,司徒である義陽の人である王望、司空の荀ら,凡そ八公がともに,時を同じくして並
び置かれることとなった。帝は魏氏が孤立之敝におちいったことを懲戒としたため,故に大い
に宗室を封じ,授けるに職任を以てすると,又た諸王を招いて皆自ら國中の長吏を選ぶこと
を得られるものとした;衛將軍である齊王の攸は獨りだけ敢えて(自分で国中の長吏を選ぶ
ことを)せず,皆上げて(皇帝に上表して人事についての返事を)請うようにした。
 詔がくだされて魏の宗室の禁錮が除かれ,部曲將及び長吏が質任を納れるのを罷めること
となった。

5 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 19:52:10
 帝は魏氏がおこなった刻薄奢侈之後を承ったため,矯めて以って仁儉をいたそうと
欲していた,太常丞の許奇は,許允之子であった,帝將有事於太廟,朝議は許奇の
父が誅を受けていたことを以って,左右に接近させるは宜しからず,出して外官と為
すべきであると請うた;帝はすなわち追って許允の夙望を述べ,許奇の才を称えると,
擢んで祠部郎と為した。有司が牛を御す青絲が紖斷されたと言ってきたため,詔が
くだされて青麻を以て之に代えることとなった。
 初めて諫官を置くと,散騎常侍の傅玄、皇甫陶を以って之を為した。傅玄は,傅干
の子である也。傅玄は魏の末に士風が頽敝(頽廃)していたことを以って,上疏して
曰く:「臣が聞きますに先王が天下を御すや,上では教化が隆ぶり,下では清議が行
われるようになったとか。近くは魏武(曹操)が法術を好むと而して天下は刑名を貴び,
魏文(曹丕)が通達を慕うや而して天下は守節を賤しみ,其後に綱維が攝されず,放
誕が朝に盈ちゆき,遂に天下を使て清議を復すこと無くならせてしまったのです。陛下
は龍興なさって受禪され,堯、舜のような王化を弘めんとしておられます,惟だ未だ
清遠有禮の臣を推挙して風節を敦くすることせず,未だ虚鄙之士を退けて以って不恪
なるを懲らしめようとせずにいるだけなのです,臣に是れぞ以って猶も敢えて言うこと
の有るしだいなのです。」上は嘉して其の言を納れ,傅玄を使て草詔させて之を進め
ようとしたが,然るに亦た革めること能わなかった也。
 初め,漢の征西將軍であった司馬鈞が豫章太守となった司馬量を生み,司馬量が
穎川太守となった司馬俊を生み,俊が京兆尹となった司馬防を生み,防が宣帝を生
んだのである。

6 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 20:03:00
  世祖武皇帝 上之上 泰始二年(丙戌,西暦266年)

 春,正月,丁亥,即ち用って魏の廟に祭られていた征西府君以下より景帝まで凡そ
七室を並べることとなった。
 辛丑,景帝の夫人である羊氏を尊び曰く景皇后とし,弘訓宮を居とした。
 丙午,皇后として弘農の(人である)楊氏を立てた;后は,魏の通事郎であった文宗の
むすめである也。
 群臣が奏(上)した:「五帝が天帝に即くや也,王氣は時で異なったものです,故に
名號には五つが有るのです。今より明堂、南郊は宜しく五帝の座を除すべきです。」
そこで之に従った。帝は,王肅の外孫であった,故に郊祀之禮にあっては,有司の
多くが王肅の議に従ったのである。
 二月,漢の宗室の禁錮を除いた。三月,戊戌,呉が大鴻臚の張儼、五官中郎將の
丁忠を遣わしてきて弔祭に来た。
 呉の散騎常侍である廬江の王蕃は,その體氣高亮であり,承顔しても順指すこと能
わなかったため,呉主は悦ばなかった,そこで散騎常侍の萬ケ、中書丞の陳聲はこれ
に従って而して之を譖(そし)った。丁忠が使いから還ると,呉主は群臣と大會し,王
蕃は沉醉(泥酔)して頓伏して(へべれけに寝て)しまった。呉主は其の詐りを疑い,
王蕃を輿にのせて外に出した。頃之,召還した。王蕃は威儀を治めることを好んでい
たことから,行止(行動)が自若としたものであった。呉主は大いに怒り,左右を呵っ
て殿下に於いて之を斬りすて,出て,山に登り來たると,親近を使て王蕃の首を擲た
せ,虎跳狼爭を作して(山に斬捨てた首を捨ておき山野の野獣に齧らせる儀式刑)
之を咋嚙せしめたため,首(かしら)は皆碎壞されてしまった。
 丁忠は呉主に説いて曰く:「北方には守戰之備えが無くなっておりますから,弋陽は
襲えば而して取ることができましょう。」呉主は以って群臣に問うたところ,鎮西大將
軍の陸凱が曰く:「北方は新たに巴、蜀を並べ(平定し)たばかりで,使いを遣わして
和を求めてきておりますが,それは我らに援けを求めているのではありません,力を
蓄えて以って時を俟たんと欲しているだけです。敵の勢いは方(まさ)に強まらんとし
ておるのです,それなのに而して幸いを徼えとって(幸運を期待して)勝ちを求めん
と欲すなど,未だ其の利を見ないものです。」呉主は出兵せずと雖も,然るに遂に晉
と関係を絶った。陸凱は,陸遜之族子である也。

7 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 20:20:43
 夏,五月,壬子,博陵元公の王沈が卒した。
 六月,丙午晦,日食が有った。
 文帝之喪,臣民は皆が權制に従い,三日して服を除した。既にして葬られると,
帝も亦た之を除いたが,然るに猶も素冠疏食し,哀毀すること喪に居している者の
如くであった。秋,八月,帝が將に崇陽陵に拝謁しようとしたおり,群臣は奏言し,
秋が暑く未だ平がないでいるのは,恐らく帝が悲しみ感じっているため(気候が)
摧き傷なわれているのだとした。帝曰く:「朕が瞻山陵を奉ずること得られれば,體
氣は自ら佳よくなることであろう。」
又た詔に曰く:「漢の文帝は天下をして哀しみを盡くさせなかったが,それも亦た帝
王の至謙の志ではなかろうか。當に山陵に見えるべきに,何心無服!其議以衰
絰從行。群臣は自ら舊制に依るように。」尚書令の裴秀は奏じて曰く:「陛下は既
にして(服喪の礼を)除いておりますのに而して復た服されようとしておりますが,
それは義の依る所を無くすものです;若し君が服しているのに而して臣が服さない
なら,それも亦た未だ之れ敢えて安んぜざるものでしょう也。」詔に曰く:
「患情不能跂及耳,衣服何在!諸君勤勤之至,豈苟相違。」遂に止めた。
 中軍將軍の羊祜は傅玄に謂って曰く:「三年の喪は,服喪を遂げるのを貴ぶの
が,禮であると雖も,而して漢の文帝が之を除いたのは,禮を毀(こわ)し義を傷つ
けるものだった。今主上は至孝であらせられる,其の服を奪うと雖も,その實は喪
禮を行ったものといえよう。若し此れに因って先王の法を復すも,亦た善ろしいこと
ではないか!」傅玄曰く:「日を以って月に易えること,已にして數百年となっている,
一旦にして復古しようとしても,行うに難しろう也。」羊祜曰く:「天下をして禮に如く
こと能わしまず,且つ主上をして服を遂げさせしまざるは,不猶愈乎!」玄曰く:
「主上が除かずにいるのに而して天下が之を除いてしまう,此れは但だたんに父子
に有らざるというだけでない,君臣も復た無くなるのだ也。」乃ち止めた。

8 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 20:34:48
 戊辰,群臣は奏上して服を易えて膳を復することを請うた,詔に曰く:「幽冥を
念じ感ず毎に,而して苴絰の禮を終えること得られなかったため,以って沉痛と
為っているのだ。況んや當に稻を食らい錦を衣とすをや!適足激切其心,非所
以相解也。朕は本もと諸生の家であって,禮を傳えられて來たること久しいのだ,
何ぞ一旦に至って便じて此の情を天とする所に於いて易えられようか!
相從已多,可試省孔子答宰我之言,無事紛紜也!」遂に疏素を以って三年を終
えたのである。
 臣光曰く:三年之喪は,天子より庶人に於けるまで達していた,此れは先王の
禮經であり,百世不易のものなのだ。漢の文帝は心を師にして學ぼうとせずに,
古を変えて禮を壊し,父子の恩を絶ち,君臣之義を虧してしまった;そのため後
世の帝王が哀戚の情を篤くすこと能わざることになったのだが,而して群臣は
諂諛して(阿諛して),釐正を肯うもの莫かった。晋の武帝に於けるに至って獨
りだけ以って天性矯めてでも而して之を行ったのは,不世之賢君と謂う可きで
あった;而るに裴、傅之徒は,固陋の庸臣で,習常玩故(常法を習いながら故事
を玩び),其の美に將順すること能わなかった,惜しいかな!
  呉は改元して寶鼎とした。

9 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 20:49:01
 呉主は陸凱を以って左丞相と為し,萬ケを右丞相と為した。呉主は人が己を
視るのを悪(にく)むことから,群臣は侍見しても,敢えて目を挙げるもの莫った。
陸凱曰く:「君臣には相識らざるという道など無いものです,若し猝となり不虞(不
慮)のことが有りましても,赴く所を知らないこととなりましょう。」呉主は乃ち陸凱
が自らを視ることを聴きとどけたが,而して他人は故(もと)の如くであった。
呉主は武昌を居としていたため,揚州の民は流れを溯って(食糧や税,労務を)
供給することになっており,甚だ之に苦しんでいた,又た奢侈も限度が無かった
ために,公私ともに窮匱した。陸凱は上疏して曰く:「今四邊(四方)は無事ですか
ら,當に民を養い財を豐かにすることに務めるべきです,而るに更めて奢を窮め
欲を極めようなど,災いが無いのに而して民の命が盡きており,為すこと無くして
而して國の財が空になっております,臣は竊って之を痛むしだいです。昔漢室が
衰えること既にして,三家が鼎立しました;今曹、劉は失道し,皆晉が有すところと
為りました,此は目前の明らかな驗めです。臣は愚しくも,但だ陛下の為に國家を
惜しむのみです。武昌の土地は危險□脊確であって,王者の都に非ず。且つ童
謠は云っております:『寧ろ建業の水を飲もうと,武昌の魚は食わず;寧ろ建業に
還って死のうとも,武昌に止まり居らず。』此を以てして之を觀るに,民心の天意
に与していること明らかに足るものです矣。今國には一年の蓄えとて無く,民に
は離散之怨みが有り,國には露根之漸が有ります,而して官吏は務めて苛急を
為し,之に或いは恤すもの莫いことです。大帝(孫権)の時には,後宮の列女及び
諸織絡は数えても百に満たずにおりました,景帝以來,乃ち千數を有すこととなり
ました,此れは耗財之甚しきことであります。又た左右の臣が,其の人に非ざるを
率い,群黨が相扶(たす)けあい,忠臣を害し賢人を隠れさせております,此れは
皆政を蠹(むしば)み民を病ませることです也。臣願わくば陛下には省みられて百
役を息つかせ,苛擾を罷め去り,宮女を料り出し,百官を清選されますよう,なれ
ば則ち天はスび民は附き,國家は永きにわたり安んずることでしょう。」呉主は悦
ばなかったと雖も,其の宿望を以てして,特に之を優容したのである。
 九月,詔がくだった:「今より詔で欲す所有って,已にして奏じて可を得るに及ぶ
と雖も,而して事に於いて便ぜざるなら,皆情を隠す可からず。」
 戊戌,有司が奏上した:「大晉が魏から受禪されましたたからには,宜しく一えに
前代の正朔、服色を用い,虞が唐を遵んだ故事の如くなさるべきでございます。」
そこで之に從った

10 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 21:00:03
 冬,十月,丙午朔,日食が有った。
 永安の山賊である施但は,民の勞怨に因って,衆數千人を聚め,呉主の庶弟
であった永安侯の謙を劫して乱を作すと,北のかた建業に至ろうとした,衆は萬
餘人,未だ至らざること三十里住,吉日を擇んで入城した。使いを遣わし孫謙の
命を以て丁固、諸葛靚を召そうとしたが,丁固、諸葛靚は其の使いを斬りすて,
兵を徴発して牛屯で逆にうって戦った。施但の兵は皆甲冑が無かったため,即座
に敗れ散りぢりになった。孫謙が獨りだけで車中に坐していたため,之を生け獲り
にした。丁固は殺すこと敢えてせず,状況説明を以って呉主に報告したところ,
呉主は其の母及び弟の俊らを並べ皆之を殺した。初め,望氣者は云った:「荊州
に王氣有り,當に揚州を破るべし。」故に呉主は都を武昌に徙したのである。施
但が反すに及び,自ら以為らく計(はかりごと)を得たとし,數百人を遣わして鼓噪
させて建業に入らせ,施但の妻子を殺させて,云わせた「天子が荊州の兵を使て
揚州の賊を来たり破らせた。」
 十一月,初めて南北の郊に於いて圜丘、方丘之祀を並べてした。
 山陽公國の督軍を罷め,其の禁制を除いた。
 十二月,呉主は還って建業を都とすると,后の父である衛將軍にして、録尚書事
の滕牧を使て武昌を收め留め鎮めさせた。朝士は滕牧が尊戚であることを以って,
頗る令を推して諫め爭ったため,滕皇后の寵が是れに由って漸いに衰え,更めて
滕牧を遣わして蒼梧に居らせることとなった,爵位は奪われざると雖も,其の實は
左遷であったため,道中で以って憂死した。何太后が常に滕皇后を保ち佑けてやり,
太史も又た中宮は易える可からずと言った。呉主は巫覡を信じていたため,故に
廢されざるを得たのだが,常に昇平宮にて供養しており,進み見えること復たなく,
諸姫で皇后の璽紱を佩いた者は甚だ衆く,滕皇后は朝賀を受けて表疏するだけ
であった。呉主は黄門を使て遍く州郡に行かせ,將吏の家のむすめたちや,其の
二千石の大臣の子女たちを料り取らせ,皆歳歳で名を言わせ,年十五、六なれば
一たびは簡閲されることとなった,簡閲して中らなければ,乃ち出て嫁ぐを得ら
れた。
後宮は千を以てして數えることとなったが,而して采擇は已むこと無かった。

11 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 21:15:43
  世祖武皇帝上之上泰始三年(丁亥,西暦267年)

 春,正月,丁卯,子の衷を立てて皇太子と為した。詔すにあたり以って「近世
では太子を立てる毎に必ず赦が有ったものだ,今は世運は將に平らかである
から,當に之を示すに好惡を以てすべきであろう,百姓を使て多幸の望みを絶
たしむべきである。曲げて小人に恵むなど,朕は取ること焉れ無いものだ!」
遂に赦さなかった。
 司隸校尉である上黨の李喜は故の立進令であった劉友、前の尚書であった
山濤、中山王の司馬睦、尚書僕射の武陔らを劾奏すると各おの官の稻田を佔
じているから,山濤、司馬睦等の官を免ずよう請い,武陔については已に亡くな
っていたため,其の謚を貶めるよう請うた。詔に曰く:「劉友は百姓を侵し剝ぎと
り以って朝士を謬まらせ惑わした,其の考は竟として以って邪佞を懲らしむるも
のとす。山濤等は其の過ちを貳びせぬのだから,皆問う所を有すこと勿れ。李
喜は志を亢らせて公に在った,官に當って而して行ったことは,邦(くに)の司直
と謂う可きである。光武が云ったことが有る:『貴戚且斂手以避二鮑。』其れ群寮
に申しわたし敕すものとす,各おの所詞を慎むよう,ェ宥之恩は,何度も遭遇で
きるものではないぞ!」司馬睦は,宣帝の弟の子である也。
 臣光曰く:政の大本は,刑賞に於けるに在るもので,刑賞が明らかでないなら,
政は何をか以って成るものであろうか!晉の武帝は山濤を赦して而して李喜を
褒めたが,其れ刑、賞に於いて両つながら之を失ったものであった。李喜の言い
し所を使て是と為さしむなら,則ち山濤は赦す可からず;言う所を非と為すなら,
則ち喜は褒めるに足らず。褒之使言,言っても而して用いられざるなら,怨みが
下に於いて結ばれようし,威(権柄)が上に於いて玩ばれよう,將に安んぞ之を
用いようか!且つ四臣は同罪なのだから,劉友が誅に伏したのに而して山濤等
が不問とされ,(罰すのにあたり)貴を避けて賤に施すなど,政と謂う可きか!
創業之初めなのに,而して政の本が立たざるなら,將に以って後世を垂統せん
としても,亦た難しいことではなかろうか!
 帝は李喜を以って太子太傅と為し,犍為(出身)の李密を徽して(徴して?)
(太子)洗馬と為した。李密は祖母が老いていたことを以って,固辭したため,
之を許した。李密は人と交わり,公で其の得失を議す毎に而して之を切責し,
常に言うことに:「吾は(党与となる仲間がいず)獨りだけで世に立つこととなり,
影を顧みても儔(ともがら)など無かった;然りながら而して(外の党人から陥れ
られて罪を得ることを)懼れずにいられたのは,どの人に於いても彼我など無く
していたことを以っての故であろう。」

12 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 21:39:22
 呉は大赦すると,右丞相の萬ケを以って巴丘を鎮めさせた。
 夏,六月,呉主が昭明宮を作すこととなると,二千石以下は,皆自ら山に入って
木の伐採を監督した。大いに苑囿を開き,土山、樓觀を起てて,伎巧を窮め極め
たため,その功役の費は億萬を以って計上されることとなった。陸凱が諫めたもの
の,聽きいれられなかった。中書丞の華覈が上疏して曰く:「漢文之世には,九州
が晏然としていたのに,賈誼は獨りだけ以為らく積んだ薪之下に於いて火厝を抱き
ながら而して其の上に寝ているが如くであるのだとしました。今大敵が九州の地に
拠って,太半の衆を有し,國家に与えんとして相吞之計を為そうと欲しております,
漢之淮南、濟北だけを徒としているに非ざることでして,賈誼のころの世と比べて,
孰くが緩急を為しておりましょうか?今倉庫は空しく匱しく,編戸は失業しておりま
すが;而して北方は穀を積みあげて民を養っており,心を専らにして東に向かおう
としているのです。又た,交趾が淪沒し,嶺表も動搖しており,胸背に嫌を有して,
首尾ともに難を多くしておりますこと,乃ち國朝之厄會といえましょう。若し此れを
捨てて務めを急ぎ,功作に力を尽くしてしまえば,卒然として風塵おこり不虞之變
(不慮の変)が有れば,當に版築を委ねて而して烽燧に応じようとすべきですが,
怨みつのる民を驅せさせて而して白刃に赴かせるわけで,此れは乃ち大敵に
以って資と為させてしまう所以のものとなりましょう。」時に呉の風俗は奢侈にかた
むいていた,華覈は又た上疏して曰く:「今事が多いのに而して役は繁く,民が貧
しいのに而して風俗が豪奢となっております,百工は無用之器を作り,婦人は綺
靡之飾りを為し,轉じて相倣傚しあっておりまして,恥獨無有。兵民の家は,猶も
復た俗を逐うもの,内には甔石之儲が無くして而して出るに綾綺之服を有そうと
しております,このように上に尊卑等級之差が無くして,下に耗財費力之損が有
るのですから,其の富給を求めても,庸として得らる可きでしょうか?」呉主は皆
聽きいれなかった。
 秋,七月,王祥が睢陵公を以って罷めることとなった。
 九月,甲申,詔がくだり吏の俸禄を増すこととなった。
 何曾を以って太保と為し,義陽王の司馬望が太尉と為り,荀が司徒と為った。
 星氣、讖緯之學を禁じた。
 呉主は孟仁を以って守丞相とすると,奉法駕東迎其父文帝神於明陵,中使相
繼,奉問起居。巫覡が文帝が服を被り顔色は平生の如くでいるのが見えると言
った。呉主は悲喜して,東門之外で迎え拝した。既にして入廟すると,比すこと
七日三たび祭った,諸倡伎を設けて,晝となく夜となく娯樂にふけった。是歳,鮮
卑の拓跋沙漠汗を遣わして其の國に帰らせた。

13 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 21:56:56
  世祖武皇帝上之上 泰始四年(戊子,西暦268年)

 春,正月,丙戌,賈充等が刊行した所の修律令を上梓した。帝は親しく自ら講に
臨むと,尚書郎の裴楷を使て執讀させた。裴楷は,裴秀の從弟である。侍中の
盧珽、中書侍郎の范陽、張華らが新律の死罪の條目を抄要して,之を亭傳に懸け
て以って民に示すようにと請うたため,之に從った。又た詔をくだし河南尹の杜預に
黜陟之課を為させることとした,杜預が奏上した:「古には黜陟は,心に於いて議論
を擬らし,法には拘泥しませんでした;しかし末世は遠き過去を紀(規範)とすること
能わず而して密微を求めることを専らにし,心を疑い而して耳目を信じ,耳目を疑え
ば而して簡書を信じております。簡書は愈ます繁雑になり,官が方に愈すます偽る
こととなっております。魏氏の考課は,即ち京房の遺した意でして,其の文は至密と
謂う可きですが,然りながら苛細に於いて失して以って本體に違えております,故に
代を歴してゆくと通ずこと能わざることとなったのです。豈に唐堯之舊制を申しのべ
るが若く,大を取りて小を捨てさり,密を去って簡に就く,俾之易從也!夫曲盡物理,
神而明之,存乎其人;去人而任法,則以文傷理。莫若委任達官,各考所統,歳第
其人,言其優劣。如此六載,主者總集,采案其言,六優者超擢,六劣者廢免,優
多劣少者平敘,劣多優少者左遷。其間所對不鈞,品有難易,主者固當准量輕重,
微加降殺,不足曲以法盡也。其有優劣徇情,不葉公論者,當委監司隨而彈之。
若令上下公相容過,此為清議大頽,雖有考課之法,亦無益也。」事は竟(つい)に
行われなかった。
 丁亥,帝は洛水之北に於いて籍田を耕した。
 戊子,大赦した。
 二月,呉主は左御史大夫の丁固を以って司徒と為し,右御史大夫の孟仁を司空と為した。
 三月,戊子,皇太后の王氏が殂した。帝が喪之制に居ること,一えに古禮を遵ぶこととした。
 夏,四月,戊戌,睢陵元公の王祥が卒したが,一門には雜吊之賓とて無かった。
そのため其の族孫の戎が歎じて曰く:「太保が正始之世に當たっては,不在能言之
流;及間與之言,理致清遠,豈非以コ掩其言乎!」
 已亥,文明皇后を葬った。有司が又た奏した:「既にして虞されましたからには,
衰服を除かれますように。」詔に曰く:「終身之愛を受けてきたのに而して數年之報
さえ無いなど,情として忍びざる所である也。」有司が固く請うたため,詔に曰く:
「わが患うは篤孝の能わざることに在るのだ,毀傷を以って憂を為さしむこと勿れ。
前代の禮典でも,質文は同じからざるに,何ぞ必ず近い制を以って限ろうとし,達
喪を使て闕然とせしもうとするのか!」群臣が已めないよう請うたため,乃ち之を
許したが。然りながら猶も素冠疏食をおこない以って三年を終えたこと,文帝の喪
の如くであった。

14 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 22:03:05
 秋,七月,衆星が西へ流れること雨ふるが如くであり而して隕ちた。
 己卯,帝は崇陽陵に拝謁した。
 九月,青、徐、兗、豫四州に大水があった。
 大司馬の石苞は久しく淮南に在って,その威惠が甚だ著された。淮北監軍
の王琛は之を惡(にく)み,密かに石苞は呉人と交わり通じていると上表した。
呉人が將に入寇しようとするに會し,石苞が壘を築いて水を遏えて以って自ら
を固めたため,帝は之を疑った。羊祜は深く帝の為に石苞の然らざること(石
苞が叛意を持ったわけでないこと)必ずであると言ってやったが,帝は信じず,
乃ち詔を下して以って石苞は賊勢を料らず,壘を築き水を遏し,百姓を勞して
擾えさせているとして,策をくだし其の官を免じた。そうして義陽王望を遣わして
大軍を帥させて以って之を征させるものとした。石苞は河内(出身)の孫鑠を辟
して掾と為していた,孫鑠は先に汝陰の王駿と善くしており,王駿が時に許昌を
鎮めていたため,孫鑠は過ぎたおり之に見えた。王駿は台(三公、朝廷)が已に
軍を遣わして石苞を襲うことになったのを知っていたため,私(ひそ)かに之に
告げて曰く:「禍いに与すこと無かれ!」孫鑠は出ること既にすると,馳せて壽春
に詣でて,石苞に兵を放ち(解散し),歩いて都亭に出て罪を待つよう勧め,石
苞は之に從った。帝は之を聞き,意(きもち)が解けた。石苞は闕に詣でると,
樂陵公を以って第に還ることとなった。
 呉主は東關に出ると,冬,十月,其の將の施績を使て江夏に入らせ,萬ケに
は襄陽を寇させた。そこで詔をくだし義陽王の司馬望に中軍の歩騎二萬を統め
させて龍陂に駐屯させ,二方の為に聲援となした。荊州刺史の胡烈が施績を拒
んで,之を破るに会したため,司馬望は兵を引きつれて還った。
 呉の交州刺史の劉俊、大都督の脩則、將軍の顧容らが前後して三たび交趾を
攻めたが,交趾太守の楊稷は皆拒んで之を破ったため,鬱林、九真が皆楊稷に
附くことになった。楊稷は將軍の毛Q、董元を遣わして合浦を攻めさせ,古城で
戦うと,大いに呉兵を破り,劉俊、脩則を殺した,餘りの兵は散りぢりになり合浦
に還った。楊稷は表して毛Qを鬱林太守と為し,董元を九真太守と為した。
 十一月,呉の丁奉、諸葛靚が芍陂に出て,合肥を攻めたため,安東將軍であ
る汝陰王の司馬駿が之を拒み卻した。
 義陽王の司馬望を以って大司馬と為し,荀を太尉と為し,石苞を司徒と為した。

15 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 22:12:05
  世祖武皇帝上之上 泰始五年(己丑,西暦269年)

 春,正月,呉主は子の瑾を立てて皇太子と為した。
 二月,雍、涼、梁州を分けて秦州を置き,胡烈を以って刺史と為した。是より
先に,ケ艾は鮮卑の降ってきた者數萬を納れると,雍、涼之間に於けるに置き,
民と雜居させていた,朝廷は其の久しくなり而して患いを為すことになるのを恐
れ,胡烈が素より西方に名を著していたため,故に使わして之を鎮撫させること
にしたのである。
 青、徐、兗三州が大水となった。
 帝は呉を滅ぼそうという志を有すようになった,壬寅,尚書左僕射の羊祜を以
って荊州諸軍事を都督させ,襄陽を鎮めさせた;征東大將軍の衛瑾を都督青州
諸軍事とし,臨菑を鎮めさせた;鎮東大將軍である東莞王の司馬伷を都督徐州
諸軍事とし,下邳を鎮めさせた。
 羊祜は遠近を綏ね懷けんとし,甚だ江、漢之心を得ることになった。呉人との
間に大いに信を開き布き,降ってきた者が去ろうと欲すと,皆之を聽きいれた。
戍邏の兵卒を減らし,以って八百餘頃を墾田した。其の始めに至ったころには,
軍には百日の糧とて無かったが,其の季年に及ぶや,乃ち十年之積を有すこと
になった。羊祜は軍に在っても,常に輕裘緩帶で(軽装を保ち),身は甲を被らず,
鈴閣(執務室のある建物)之下にある侍衛は十數人を過ぎなかった。
 濟陰太守である巴西(出身)の文立が上言した:「故(もと)の蜀の名臣の子孫で
中國に流され徙された者がおります,宜しく才を量り敘用なさって,以って巴、蜀の
人心を慰め,呉人の輿望を我らに傾けるべきです。」帝は之に從った。己未,詔を
くだして曰く:「諸葛亮は蜀に在って,其の心力を盡くし,其の子の瞻は難に臨んで
而して義に死んだ,其の孫である諸葛京は宜しく才に隨って署吏とすべし。」又た
詔に曰く:「蜀將の傅僉父子は其の主に於けるに死した。天下之善は一つである,
豈に彼此に由って以って異を為そうか哉!傅僉の子息である著、募は奚官に沒
入されているが,宜しく免じて庶人と為すべし。」
 帝は以って文立を散騎常侍と為した。漢の故の尚書で犍為(出身)の程瓊は,雅
にしてコ業を有し,文立と深く交わっていた。帝は其の名を聞きつけたため,以って
文立に問うた,對して曰く:「臣は至って其の人を知っておりますが,但し年は八十に
垂れんとしておりまして,その稟性から謙譲して引退しておりますから,當時之望を
復すことも無かろうと,故に以って上聞いたさなかっただけでございます。」程瓊は
之を聞いて,曰く:「廣休(文立のこと)は不黨と謂う可き矣,此れぞ吾が善夫の人
とした所以である。」

16 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 22:24:39
 秋,九月,流れ星が紫宮の分野に落ちた。
 冬,十月,呉が大赦し,改元して建衡とした。
 皇子景度を封じて城陽王と為した。
 初め,汝南の何定は嘗て呉の大帝の給使と為っていたが,呉主が即位するに
及び,自ら表して先帝の舊人であるからと,内侍に還ることを求めた。呉主が以
って樓下都尉と為すと,酤糴の事を典じ知り,遂に威福を為すことを専らにするこ
ととなった;呉主は之を信任し,以って衆事を委ねた。左丞相の陸凱は何定を面
責して曰く:「卿は前後に見えて主に事(つか)えて不忠であるうえ,國政を傾け亂
しているが,寧んぞ壽(いのちながき)を以って終わりを得られる者など有るだろ
うか!何をか以って奸邪を為すこと専らにして,天聽を塵穢させるのか(天子の
お耳を塵芥で穢すのか)!宜しく自らを改め獅ワすべきだ,然らざれば,方(まさ)
に卿は不測之禍が有るのを見ることとなろう。」何定は大いに之を恨んだ。陸凱
は心を公家に竭くし,忠懇内發,表や疏は皆指事して飾らなかった。病を疾むに
及び,呉主は中書令の董朝を遣わして問所欲言(言いたい所を問わせた),陸凱
は陳べた「何定は信用す可からず,宜しく以って外の任を授けるべきです。奚熙
は小吏でしかなく,建起浦裡田(隠れて土地を開墾して懐にしています?),亦た
聽きいれる可からず。姚信、樓玄、賀邵、張悌、郭逴、薛瑩、滕修及びわが族弟
の喜、抗は,或いは清白にして忠勤であり,或いは資才が卓茂しております,皆
社稷之良輔というもの,願わくば陛下には神思を重ねて留められ,時務を以て訪
い,各おの其の忠を盡くさ使め,萬一を拾遺せしめますように。」賀邵は,賀齊の
孫であり;薛瑩は,薛綜の子である;樓玄は,沛の人である;滕修は,南陽の人で
ある。陸凱は尋くして卒した。呉主は素より其の切直なるを銜んでおり,且つ日ご
と何定之譖りを聞くこととなって,之を久しくしたため,竟に陸凱の家族を建安に
徙(うつ)してしまった。
 呉主は監軍の虞、威南將軍の薛珝、蒼梧太守である丹楊の陶璜を荊州道
より遣わし,監軍の李勖、督軍の徐存を建安海道よりつかわし,皆合浦で会さ
せると,以って交趾を撃たしむこととした。
 十二月,有司が奏し東宮は二傅に敬いを施すにあたり,其の儀が同じでなか
ったとした。帝曰く:「夫れ師傅を崇敬するは,道を尊び教えを重んずる所以で
ある。何ぞ臣を臣ならずと言おうか!其れ太子に令し拜禮を申しつける。」

17 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 22:26:24
269年終わり。今はここまで。

18 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 23:25:44
このペースだとすぐ終わっちゃうじゃねーかw

19 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 18:45:35
>>18
アキレスと亀のパラドックスというものがあってな。
あとは・・・わかるな?

20 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 18:59:36
それでは270年から始めるのだ。
  世祖武皇帝上之上 泰始六年(庚寅,西暦270年)

 春,正月,呉の丁奉が渦口に入ってきたため,揚州刺史の牽弘が之を撃ち走らせた。
 呉の萬ケが巴丘より<自>建業に還った。
 夏,四月,呉の左大司馬の施績が卒した。鎮軍大將軍の陸抗を以って信陵、西陵、
夷道、樂郷、公安の諸軍事を都督させ,樂郷を治めさせた。陸抗は以って呉主の政
事は闕けること多かったため,上疏して曰く:「臣が聞きますにコ均(ひと)しければ則
ち衆き者が寡なきに勝ち,力r(ひと)しければ則ち安んずる者が危うきを制すとか,
此れは六國が秦を並べのんだ所以でありまして、西楚が漢に屈した所以であります。
今敵が據る所は,關右の地や、鴻溝以西だけを特とするに非ざるというのに,而して
國家は外では連衡の授けが無く,内では西楚の強きに非ず,庶政は陵遲しており,
黎民は未だ乂されずにおります。議者の恃む所は,徒らに長き江、峻しき山が帶び
なし限る地域を封ずるを以てするばかりとしております;此れ乃ち守國之末事であり
まして,智者之先んず所に非ざるものです。臣は念じて此れに及ぶ毎に,中夜(夜中
となっては)枕を撫で,餐に臨んでは食を忘れております。夫れ事君之義(主君に事
える義)は,犯そうとも而して欺くこと勿るものです,謹しんで時宜を十七條にして陳
べ以って聞かせもうしあげるものです。」呉主は納れなかった。
 李勖は以って建安道は利ろしからずとし,導(道案内の)將の馮斐を殺して,軍を
引きあげて還った。初め,何定は嘗て子の為に李勖に於いて求婚したが,李勖は許
さなかった,そこで乃ち李勖は枉げて馮斐を殺し,擅じて軍を撤退させて還ったと白
したため,(呉主は)李勖及び徐存,並びに其の家屬を誅すと,仍ち李勖の屍を焚
いた。何定は又た諸將を使て各おの御犬を上らせ,一匹の犬が至っては縑數十匹
分に値し,纓紲は錢一萬に値し,捕兔を以って廚に供されることとなった。呉人は
皆が罪を何定に帰していたが,而して呉主は以って忠勤であると為して,賜爵して
列侯とした。陸抗は上疏して曰く:「小人は道を理めるに不明なもの,所見が既にし
て浅薄なようでは,情を竭くし節を盡くさ使むと雖も,猶も任すに足りぬものです,
況んや其の奸心が素より篤いとあっては而るに憎愛の移ろうこと易きことですぞ!」
呉主は從わなかった。

21 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 19:05:43
 六月,戊午,胡烈は鮮卑の禿髮樹機能を萬斛堆に於いて討ったが,兵は
敗れ殺されるを被った。都督雍、涼州諸軍事であった扶風王の司馬亮が將
軍劉旂を遣わして之を救わせたが,劉旂は觀望したまま進まなかった。
司馬亮は貶しめに坐して平西將軍と為り,劉旂は當に斬られるべきとなった。
司馬亮は上言した:「節度之咎めは,この亮に由って而して出されたものです,
乞いねがわくば劉旂の死を丐ぜられんことを。」詔に曰く:「若し罪が劉旂に在
るのでないなら,當有所在(そなたに在るべきことになるぞ)。」乃ち亮の官を
免じた。尚書であった樂陵の石鑒を遣わして行安西將軍とし,都督秦州諸軍事
とすると,樹機能を討たせた。樹機能の兵は盛んであったため,石鑒は秦州刺
史の杜預を使て出兵させて之を撃たせた。杜預は以って虜が勝ちに乘じて馬
肥えているのに,而して官軍は縣け乏しいからと,宜しく力を並べて大いに芻糧
を運び,春を須って進み討つべきだとした。石鑒は奏上して杜預は軍興を稽る
こと乏しいため,檻車にて征し廷尉に詣でさせ,以って論を贖わせよとした。
既にして而して石鑒は樹機能を討ったが,卒として克つこと能わなかった。
 秋,七月,乙巳,城陽王の司馬景度が卒した。
 丁未,汝陰王の司馬駿を以って鎮西大將軍と為し,都督雍、涼等州諸軍事と
し,關中を鎮めさせた。
 冬,十一月,皇子東を立てて汝南王と為した。
 呉主の從弟で前將軍の孫秀は夏口督と為っていたが,呉主が之を惡んだた
め,民の間で皆が孫秀は當に圖られるに見えようと言いあったのである。呉主
が何定を遣わし兵五千人を将いさせて夏口に獵させた,孫秀は驚き,夜になる
と妻子、親兵數百人を将いて來奔した。十二月,孫秀を拝して驃騎將軍とし、
開府儀同三司とし,會稽公に封じた。
 是歳,呉は大赦した。
 初め,魏の人は南匈奴五部を并州諸郡に於けるに居らせると,中國の民と雜
居することになった;自ら謂うに其の先(祖)が漢氏の外孫であったのだとし,因
って改姓して劉氏となったのである。

22 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 19:12:19
  世祖武皇帝上之上 泰始七年(辛卯,西暦271年)

 春,正月,匈奴の右賢王劉猛が叛いて塞を出た。
 豫州刺史の石鑒は呉軍を撃ったおりの首級を虚張(誇張)したことに坐した,
詔に曰く:「石鑒は大臣を備え,吾が信を取る所となっていながら,而して乃ち
下に同調して詐りを為した,義得爾乎!今遣わして田裡に帰し,終身にわたり
復た用いること得られないようにする。」
 呉人の刁玄が詐って讖文を増して云った:「黄旗と紫蓋が,東南に於いて見
える,終に天下を有すは,荊、揚之君なり。」呉主は之を信じた。是月の晦,大
いに兵を舉げて華裡に出て,太后、皇后及び後宮の數千人を載せて,牛渚より
西へ上った。東觀令の華譖等が固く諫めたが,聽きいれなかった。行は大雪に
遇い,道塗が陷壞した,兵士は甲(よろい)を被り仗を持ち,百人が共になって
一つの車を引いた,寒さで凍りつき殆んど死にかけた,皆曰く:「若し敵に遇わ
ば,便じて當に戈を倒そう。(a)」呉主は之を聞き,乃ち還ることとなった。帝は
義陽王の司馬望を遣わして中軍二萬、騎三千を統めさせて壽春に駐屯させ以
って之に備えさせようとしたが,呉の師が退いたと聞いて,乃ち罷めた。
   (a)周の武王が殷の紂王と戦った牧野の戦いにあった故事
 三月,丙戌,巨鹿元公の裴秀が卒した。
 夏,四月,呉の交州刺史である陶璜が九真太守の董元を襲い,之を殺した;
楊稷は其の將の王素を以って之に代えた。
 北地胡が金城を寇したため,涼州刺史の牽弘が之を討った。衆胡は皆内から
叛き,樹機能と共に牽弘を青山に圍んだため,牽弘の軍は敗れて而して死んだ。
 初め,大司馬の陳騫は帝に於いて言って曰く:「胡烈、牽弘は皆勇あれど而し
て謀が無く,強於自用,綏邊之材(辺境を安寧させる人材)に非ざるものです,
將に國の恥と為りましょう。」時に牽弘は揚州刺史と為ると,多くが陳騫の命を
承り順うことしなかったため,帝は以為らく陳騫と牽弘とは協けあわず而して之
を毀しているのであろうとし,是に於いて牽弘を征し,既にして至ると,尋くして
復た以って涼州刺史と為したのである。陳騫は竊って歎息し,以って必ずや敗
れようと為した。二人は果たして羌戎之和を失い,兵は敗れ身は沒し,征討は
年を連ね,僅かに而して定まること能うこととなったため(辺境が安定しなくなっ
たため),帝は乃ち之を悔いることとなった。

23 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 19:23:34
 五月,皇子憲を立てて城陽王と為した。
 辛丑,義陽成王の司馬望が卒した。
 侍中、尚書令にして、車騎將軍の賈充は,文帝の時より寵任されて用って事
(つか)えていた。帝の太子と為るや,賈充には頗る力(つと)め有ったため,故
に益すます帝から寵を有すことになった。賈充の為人は諂りを巧みとしたもの
で,太尉にして、行太子太傅の荀、侍中にして、中書監の荀勖、越騎校尉で
ある安平の馮紞と相黨友と為りあったため,朝野は之を惡んだのである。帝は
侍中の裴楷に方今の得失を問うた,對して曰く:「陛下は命を受けて,四海は風
を承りましたが,未だコが堯、舜と比さざる所以は,但だ賈充之徒が尚も朝に
在ることを以ってしているだけなのです。宜しく天下の賢人を引きあげて,これと
ともに政道を弘められるべきでありまして,人に示すに私を以てなど宜しくすべ
きでありません。侍中である樂安の任ト、河南尹である穎川の庾純は皆賈充と
協けあわなかったため,賈充は其の近職を解こうと欲し,乃ち任トを忠貞であ
ると薦めて,宜しく東宮に在らすべきとした;そこで帝は任トを以って太子少傅と
為し,而して侍中であること故の如くとした。樹機能が秦、雍を乱すに会うと,帝
は以って憂いを為した,任ト曰く:「宜しく威望のある重臣で智略を有す者を得
て以って之を鎮撫せしむべきです。」帝曰く:「誰ぞ可き者であろうか?」任トは
因って賈充を薦め,庾純も亦た之を稱えた。秋,七月,癸酉,賈充を以って都
督秦、涼二州諸軍事と為し,侍中、車騎將軍であることは故の如しとした;賈充
は之に患わされた。
 呉の大都督である薛珝と陶璜等の兵十萬が,共に交趾を攻め,城中の糧は
盡きて援けは絶たれ,呉に陷される所と為り,楊稷、毛Q等が虜となった。陶
璜は毛Qの勇健なるを愛でており,之を活かそうと欲したが,毛Qが陶璜を殺
そうと謀ったため,陶璜は乃ち之を殺したのである。脩則の子の允は,其の腹
を生きたまま剖き,其の肝を割いて,曰く:「復た賊を作すこと能うや不や?」
毛Qは猶も罵って曰く:「恨むらくは汝と孫皓を殺せなかったこと,汝父何死狗
也!」王素は南中に逃げ帰ろうと欲したものの,呉人が之を獲たため,九真、
日南は皆呉に降ることとなった。呉は大赦し,陶璜を以って交州牧と為した。
陶璜は夷獠を討ち降し,州境は皆平げられた。
 八月,丙申,城陽王の憲が卒した。
 益州の南中四郡を分けて寧州を置いた。
 九月,呉の司空である孟仁が卒した。
 冬,十月,丁丑朔,日食が有った。

24 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 19:29:53
 十一月,劉猛が并州を寇したため,并州刺史の劉欽等が之を撃破した。
 賈充が將に之れに鎮じようとし,公卿は夕陽亭に於いて餞別した。賈充は
私(ひそか)に荀勖に計を問うた,荀勖曰く:「公は宰相と為っていながら,乃
ち一夫に制される所と為るも,亦た鄙びざるかな!然りとて是れ行くこととし
ましたからには,之を辭さんとも實に難しいものです,ただ、獨り太子と婚を
結ぶこと有るのみ,そうすれば辭さずとも而して自ら留まる可きこととなりま
しょう。」賈充曰く:「然りながら孰くにか寄懷す可きであろうか?」荀勖曰く:
「この勖が之を言を請うてきましょう。」因って馮紞に謂って曰く:「賈公が遠く
へ出かけたなら,吾等は勢いを失いましょう。太子の婚は尚も未だ定まって
おりません,何ぞ帝に賈公の女(むすめ)を納れるよう勧めないのですか!」
馮紞は亦た之を然りとした。初め,帝は將に衛瓘の女を納れて太子妃と為そ
うとした,賈充の妻の郭槐は楊後(楊后)の左右に賂して,後(后)を使て帝に
説かせ,其の女(むすめ)を納れることを求めた。帝曰く:「衛公の女には五
つの可が有り,賈公の女には五つの不可が有る:衛氏の種は賢く而して子が
多く,美しく而して長ずれば、白い;賈氏の種は妒して而して子が少なく,丑とし
て而して短く、Kい。」後(皇后)が固く以って請うことを為したうえ,荀、荀勖、
馮瓘らが皆賈充の女(むすめ)は絶美(絶世の美女)だと称え,且つ才コを有
しているとしたため,帝は遂に之に從ったのである。そこで賈充を留めて復た
舊任に居らせることとした。
 十二月,光祿大夫の鄭袤を以って司空と為そうとしたが,袤は固辭して受
けなかった。
 是歳,安樂思公の劉禪が卒した。
 呉は武昌都督で廣陵の范慎を以って太尉と為した。右將軍司馬の丁奉が
卒した。
 呉は明くる年の元号を改めて曰く鳳凰とした。

25 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 19:34:23
  世祖武皇帝上之上 泰始八年(壬辰,西暦272年)

 春,正月,監軍の何驍ェ劉猛を討って,屢(たびた)び之を破ると,潛かに利を
以て其の左部帥である李恪を誘ったため,李恪は劉猛を殺して以って降った。
 二月,辛卯,皇太子は賈妃を納れた。妃の年は十五,長ずること太子より二歳,
□石忌多權詐,太子は嬖して而して之を畏れた。
 壬辰,安平獻王の司馬孚が卒した,年は九十三であった。司馬孚の性は忠慎
であり,宣帝が執政すると,司馬孚は常に自ら退き損じた。後に廢立之際に逢う
と,未だ嘗て謀に預らなかった。景、文二帝は以って司馬孚が屬尊であったため,
亦た逼ること敢えてしなかった。帝が即位するに及び,恩と禮は尤も重かった。
元會,詔がくだされ司馬孚は輿に乗って上殿し,帝は阼階に於いて迎えて拜した。
既にして坐すと,親しく觴を奉じて壽<いわい>を上らせること,家人の禮の如く
であった。帝は拜す毎に,司馬孚は跪いて而して之を止めた。司馬孚は尊寵され
るに見えたと雖も,以って榮えと為さず,常に憂色が有った。臨終にあたり,令を
遺して曰く:「魏に貞士有り河内の司馬孚字は叔達,不伊不周,不夷不惠,身を立
てて道を行い,終わりと始めは一つの若くであった。衣に當たっては時服を以って
するように,斂めるに素棺を以てするように。」詔がくだされて東園の温明秘器が
賜られ,諸所の施行は,皆漢の東平獻王の故事に依った。其の家は司馬孚の遺
旨を遵び,給せられし所の器物は,一つとして施用しなかった。
 帝が右將國の皇甫陶と事を論じたおり,陶は帝と言を争ったため,散騎常侍の
鄭徽が表して之を罪とするよう請うた,帝曰く:「忠讜之言は,唯だ聞かざるに患う
のみ。鄭徽は職を越えて妄りに奏上してきた,豈に朕之意であろうか!」遂に鄭徽
の官を免じた。

26 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 19:41:35
 夏,汶山の白馬胡が諸種を侵掠したため,益州刺史の皇甫晏が之を討とうと
欲した。典學從事であった蜀郡の何旅等は諫めて曰く:「胡夷は相殘しあっており
ますが,それは固より其の常の性でありまして,未だ大いなる患いを為しておりま
せん。今盛夏で出軍すれば,水潦は將に降りなんとしておりますから,必ずや疾疫
の有ることでしょう,宜しく秋となるを須ち、冬となって之を圖るべきです。」皇甫晏
は聽きいれなかった。胡人の康木子燒香が軍出れば必ず敗れると言ったため,
皇甫晏は以為らく衆を沮すものだとし,之を斬りすてた。軍が觀阪に至ると,牙門
の張弘等は以って汶山の道は險しいとし,且つ胡衆を畏れ,因って夜に亂を作し,
皇甫晏を殺したため,軍中は驚き擾した,兵曹從事である犍為の楊倉は兵を勒し
て力戰して而して死んだ。張弘は遂に皇甫晏を誣し,云うに「己を率いて共に反そ
う」としたため,故に之を殺したとして,首を京師に傳えてきた。皇甫晏の主簿であ
った蜀郡の何攀は,方(まさ)に母の喪に居しており,之を聞くと,洛に詣でて皇甫
晏の反せざること證(明)した,張弘等は兵を縱にして抄掠した。廣漢主簿の李毅
は太守である弘農の王濬に於いて言って曰く:「皇甫侯は諸生より起ったとか,何
ぞ求めて而して反らんか!且つ廣漢と成都は密邇しております,而して梁州を統め
者に,朝廷が以って益州之衿領を制させようと欲するのは,正しく今日之變を防が
せようとしてのことです。今益州に亂が有るは,乃ち此郡の憂いです。張弘は小豎,
衆の与せざる所ですから,宜しく即時に赴き討つべきです,(機会を)失う可きであ
りません。」王濬は先ず上請を欲したが,李毅曰く:「主を殺した賊は,惡を為すこと
尤も大きいもの,當に常制に拘らざるべきです,何ぞ之を請うこと有りましょうや!」
そこで王濬は乃ち兵を徴発して張弘を討った。詔がくだり王濬を以って益州刺史と
為すこととなった。王濬は張弘を撃つと,之を斬りすて,夷三族とした。そこで王濬
を封じて關内侯とした。
 初め,王濬は羊祜の參軍と為ると,羊祜は之を深く知った。羊祜の兄の子の暨は
王濬のことを白して「その為人は志大きいものの奢侈であります,專任す可きであ
りません,宜しく以って之を裁くこと有るべきです。」羊祜曰く:「王濬には大才が有
る,將に以って其の欲す所を決濟させれば,必ずや用う可きこととなろう。」更めて
轉じて車騎從事中郎と為った。王濬が益州に在ると,威信を明らかにして立てたた
め,蠻夷の多くが之に歸附した;俄にして大司農に遷った。時に帝は羊祜と陰なが
ら呉を伐すことを謀っていた,羊祜は以為らく呉を伐すには宜しく上流之勢いに藉る
べきだとし,密かに表して王濬を留めて復た益州刺史と為し,水軍を治めせ使むよ
うにとした。尋くして龍驤將軍を加えられ,監益、梁諸軍事となった。

27 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 19:48:37
 詔が王濬にくだり屯田の兵を罷めて,大いに舟艦を作すこととなった。別駕の
何攀は以為らく「屯田兵は五六百人に過ぎず,船を作さんとしても猝辦すこと能
わず,後者が未だ成らざるうちに,前者は已にして腐れましょう。宜しく諸郡兵を
召して合わせて萬餘人とし之を造らせれば,歳の終わりには成る可きことでしょ
う。」王濬は先ず上表して返報を須とうと欲した,何攀曰く:「朝廷が萬の兵を召す
と猝聞すれば,必ずや聽きいれられますまい;輒召するに如かず,設當見卻,功
夫已にして成れば,勢いは止むを得ないこととなりましょう。」王濬は之に從い,
何攀を令して舟艦や器仗を造るを典じさせた。是に於いて大艦を作した,その長
さ百二十歩,二千餘人を受けるもので(収容するもので),木を以って城を為し,
樓櫓を起て,四つの出門を開き,其の上は皆馬を馳せさせて往來するを得られ
るようにした。時に船を作した木柿が,江を蔽って而して下へながれた,呉の建
平太守であった呉郡(出身)の吾彦は流れてきた柿を取って以って呉主に建白し
て曰く:「晉には必ずや攻呉之計が有りましょう,宜しく建平の兵を増して以って
其の衝要を塞がしむべきです。」呉主は從わなかった。吾彦は乃ち鉄鎖を為して
江路をに斷った。
 王濬は雖受中制募兵(兵を募るよう中制を受けたと雖も),而して虎符が無か
った;廣漢太守であった敦煌(出身)の張學が從事を収めて列上した。帝が張學
を召したため還ったところ,責めて曰く:「何ぞ密かに啓さずに而して從事を収める
を便じたのか?」學曰く:「蜀、漢は絶遠にあり,劉備が嘗て之を用いたのです。輒
ち收めたとしても,臣は猶も以為らく輕いとするものです。」帝は之を善しとした。
 壬辰,大赦した。
 秋,七月,賈充を以って司空と為し,侍中と、尚書令であることと、兵を領すこと
は故の如くとした。賈充と侍中の任トは皆帝に寵任される所と為っていたが,賈
充は名勢を専らにせんと欲し,而うして任トを忌むようになった,是に於いて朝士
は各おの附く所を有すこととなり,朋黨が紛然としてしまった。帝は之を知ると,
賈充、任トを召して式乾殿に於いて宴をすると而して之に謂って曰く:「朝廷は
宜しく一つであるべきで,大臣は當に和すべきだぞ。」充、トは各おの拜謝した。
既にして而して充、トは以って帝が已に知っていながら而して責めなかったため
に,愈すます憚る所が無くなり,外では相崇重しあったものの,内では怨みが益す
ます深くなった。賈充は乃ち任トを薦めて吏部尚書と為したため,任トは(それ
まで頻繁に帝の傍で)侍覲していたのが轉じて希になった,賈充は因って荀勖、
馮紞と間を承って共に之を譖ったため,任トは是れに由って罪を得て,廢されて
家に於けることとなった。

28 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 19:56:16
 八月,呉主は昭武將軍にして、西陵督の歩闡を征すことにした。歩闡は世に
わたり西陵に在ったため,猝として徽を被ると,自ら以って職を失ったとし,且
つ讒りが有ったのを懼れ,九月,城に拠って(晋に)來たり降ると,兄の子の璣、
璿を遣わして洛陽に詣でさせて任(人質)と為した。詔がくだり歩闡を以って
都督西陵諸軍事、衛將軍、開府儀同三司、侍中と為すと,領交州牧とし,宜都
公に封じた。
 冬,十月,辛未朔,日食が有った。
 敦煌太守の尹璩が卒した。涼州刺史の楊欣が表して敦煌令の梁澄を領太守
とさせた。そうしたところ功曹の宋質が輒ち梁澄を廃してしまい,表して議郎の
令狐豐を太守と為すようにとしてきた。楊欣は之に兵を遣わし計ったが,宋質
の為に敗れる所となった。
 呉の陸抗は歩闡が叛いたと聞くと,亟<すみや>かに將軍の左弈、吾彦等
を遣わして之を討つこととした。帝は荊州刺史の楊肇を遣わして歩闡を西陵に
迎えさせ,車騎將軍の羊祜には歩兵の軍を帥して江陵に出し,巴東監軍の徐
胤には水軍を帥して建平を撃たせ,以って歩闡を救おうとした。陸抗は西陵の
諸軍に敕して嚴圍を築かせ,それは赤谿より故市に於けるにまで至った,内は
以って歩闡を圍み,外は以って晉兵を御そうとのことで,晝となく夜となく催切さ
せ(包囲を築くことを強硬に行わせ),それはまるで敵が已に至ったが如くであっ
たため,衆は甚だ之に苦しんだ。諸將は諫めて曰く:「今は宜しく三軍之鋭を及
ぼすべきです,急ぎ歩闡を攻めたてれば,晉の救いが至るまでには,必ずや
拔く可きことでしょう,何ぞ圍むことを仕事として,以って士民之力を敝(疲弊)
させてしまうのですか!」陸抗曰く:「此の城の處勢は既にして固く,糧谷も又た
足りておる,且つ凡そそれらの備御之具については,皆この抗が宿規してき
た所である,今反って之を攻めても,猝拔す可からざるのだ。そうして北の兵が
至ってしまって而して備えが無いなら,表裡から難を受けることになるが,何を
か以って之を御しえよう!」諸將は皆歩闡を攻めようと欲し,陸抗も衆心をを服
させようと欲したため,一たび攻め令むことを聴きいれたが,果たして利が無か
った。圍みの備えが始めて合わさったところで,而して羊祜の兵五萬が江陵に
至った。諸將は鹹(みな)以って陸抗は上がるを宜しくすべきでないとした,陸
抗曰く:「江陵城は固より兵が足りている,憂う可きことなど無い。假に敵を令て
江陵を得させしもうとも,必ずや守ること能わざるであろうから,損なう所は小さ
くすむ。若し晉が西陵に拠ったなら,則ち南山の群夷は皆當に擾動すべきこと
となろう,其の患いは量る可からざることとなるのだ也!」乃ち自ら衆を帥して
西陵に赴いた。

29 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 19:59:48
 初め,陸抗は以って江陵之北は,道路が平易であるため,江陵督の張鹹に
敕して大いに堰を作して水を遏させ,平土を漸漬させて以って寇叛を絶たせる
こととした。羊祜は遏水した所に因って船を以って糧を運ぼうと欲し,聲を揚げ
て將に堰を破って以って歩(兵の)軍を通すこととしているとした。陸抗は之を
聞くと,鹹を使て之を亟破させた。諸將は皆惑い,屢(かさ)ねて諫めたが,聽
きいれなかった。羊祜は當陽に至ったところで,堰が敗られたと聞き,乃ち船
を改めて車を以って糧を運ぶこととなり,功力を大いに費すことになった。
 十一月,楊肇が西陵に至った。陸抗は公安の督であった孫遵に令して南岸
を循にして羊祜を御させ,水軍督の留慮には徐胤を拒ませ,陸抗自らは大軍
を将いて圍みに憑いて楊肇に対した。將軍の硃喬の營都督であった俞贊が亡
(はし)って楊肇に詣でた。陸抗曰く:「贊は軍中の舊吏であり,吾が虚實を知っ
ている。吾は常に慮ってきたのは夷兵が素より簡練でないことであった,若し
敵が圍みを攻めてきたなら,必ずや此れの處を先にしような。」即ち夜になって
夷兵を易えると,皆精兵を以って之を守らせた。明くる日,楊肇は果たして故(も
と)夷兵の處したところを攻めてきた。陸抗は之を撃つよう命じ,矢石が雨ふり
下り,楊肇の衆は傷つき、死んだ者は相屬しあうこととなった。十二月,楊肇は
屈すと計って,夜になり遁れた。陸抗は之を追おうと欲したものの,而して歩闡
が力を畜えて間を伺っているうえ,兵が分かつに足らざることを慮ると,是に於
いて但た鼓を鳴らして衆を戒めるのみとして,將に追わんとするかの若くとした
のである。楊肇の衆は兇じて懼れ,悉く甲を解いて挺走した。陸抗は輕兵を使
て之を躡せしめたため,楊肇の兵は大いに敗れ,羊祜等は皆軍を引いて還る
ことになった。陸抗は遂に西陵を抜き,歩闡及び謀を同じくした將吏數十人を誅
し,皆夷三族とし,自餘所請赦者數萬口。東して樂郷に還ったが,貌には矜る色
とて無く,謙沖すること常の如くであった。呉主は陸抗に都護を加えた。羊祜は
貶しめに坐して平南將軍となり,楊肇は免じられて庶人と為った。
 呉主が既にして西陵に克つや,自ら謂わく天助を得たのだとし,志は益すます
張りつめ大きくなり,使術士尚廣筮取天下,對して曰く:「吉なり。庚子の歳に,
青蓋が當に洛陽に入るべきこととなりましょう。」呉主は喜ぶと,コ政を修めず,
兼併之計を為すのを専らにするようになった。

30 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 20:03:48
 賈充は朝士と宴をし飲んだ,河南尹の庾純は醉っぱらうと,賈充と爭い言い
あった。賈充曰く:「父が老いたのに,供養にも帰らない,卿は天地を無くすよ
うなことを為しているのだ!」純曰:「なら高貴郷公は何ぞ在らんか?」賈充は
慚じて怒り,上表して職を解かせようとした;純も亦た上表して自らを弾劾した。
詔がくだされて純の官を免じ,仍ち五府に下して其の臧否を正した。石苞は
以為らく純は榮官すると親を忘れたから,當に除名すべしとし,齊王攸等は
以為らく純は禮律に於いては未だ違えることは有さなかったとした。詔がくだ
され攸の議に従うこととなり,復た純を以って國子祭酒と為すこととなった。
  呉主之華裡に遊ぶや,右丞相の萬ケと右大司馬の丁奉、左將軍の留平
は密かに謀って曰く:「若し華裡に至って歸らざるなら,社稷の事は重い,
不得不自還。」呉主は頗る之を聞いたものの,以ってケ等が舊臣であったこ
とから,隱忍して(処分,怒りを)發しなかった。是歳,呉主は會に因って,以
って毒酒を万ケに飲ませようとしたが,酒を傳えた人が私(ひそか)に之を減
らした。又た留平にも飲ませたが,留平は之を覺り,他藥を服して以って解い
たため,死なざるを得た。万ケは自殺し;留平は憂い懣ちて,月餘りして亦た
死んだ。万ケの子弟を廬陵に於けるに徙した。

31 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 20:10:05
 初め,万ケは忠清之士を選んで以って近職を補わせるのを請うた,呉主は
大司農の樓玄を以って宮の為に鎮に下し,殿中の事を主(つかさど)らせた。
樓玄は身を正して衆を帥し,法を奉って而して行い,對に応じては切直であっ
たため,呉主は浸されてスばなかった。中書令にして領太子太傅の賀邵は
上疏して諫めて曰く:「自頃年以來(近頃の年より以来),朝の序列は紛らわし
く錯じりあい,真偽は相貿まりあって,忠良は排され墜とされ,信(まこと)の
臣は害を被っております。以って正士が地方で摧かれているのに而して庸臣
は苟媚するを是とするなら,意に先んじて指図を承り,各おの時の趣くことを
希うこととなりましょう。人は反理之評を執り,士は詭道之論を吐き,遂に清流
を使て濁りに変じさせ,忠臣に舌を結ばせてしまうことでしょう。陛下は九天之
上に処し,百里之室に隠れ,言は風靡に出て,令は景從に行われております。
寵媚之臣に親しみ洽わせておりまして,日ごと聞くは順意之辭,ですが將に謂
わく此の輩が實に賢なれば而して天下は已にして平げられておりましょう。
臣が聞きますには興國之君は其の過ちを聞くを楽しみとし,荒亂之主は其の
譽めるを聞くを楽しむものです;其の過ちを聞けば過ちは日ごと消えてゆき而
して福が臻(いた)るもので,其の譽を聞けば譽が日ごと損なわれて而して禍
ちが至ることになるのです。陛下は刑法を厳しくして以って直辭を禁じ,善士を
黜退させて以って諫めの口に逆らい,酒を杯について次つぎに造しております,
その死生が保たれざるため,仕えている者は退くを以ってして幸いと為し,居
る者は出るを以ってして福と為しております,これは誠に洪緒を保ち光らせ,
天道王化を熙隆させる所以に非ざることでございます。何定は本もと僕隸の
小人でして,身は行いも能(力)も無かるのに,而して陛下は其の佞媚(佞りや
媚び)を愛でられ,以って威福を假しあたえられました。夫れ小人は求められ
入れば,必ずや奸利を進めるものです。定間者忘興事役,江邊より戍兵を徴
発して以って麋鹿を驅せさせ,老弱は饑え凍え,大も小も怨み歎いております。
《傳》に曰く:『國之興らんとするや也,民を視ること赤子の如く;其の亡びなんと
するや,民を以って草芥と為さしむ。』今法禁は苛(むご)きに轉じ,賦調は益す
ます繁く,中官、近臣の所在では事を興こし,而して長吏は罪を畏れ,苦民は辦
を求めています。是れ人の力を以ってしては堪えられず,家戸は離散し,呼嗟之
聲は,和気を感傷しています。今や國には一年之儲さえ無く,家には經月之蓄え
さえ無いというのに,而るに後宮之中で食に坐す者は萬有餘人となっております。
又た,北の敵が注目しており,わが國の盛衰を伺っております,長江之限りは,
久しく恃む可からざるもの,苟しくも我らが守ること能わざるなら,一葦も杭とす
可きです也。願わくば陛下には基(もとい)を豊かにし本(もと)を強められ,情を
割かちて道に従われますよう,なれば則ち成、康之治も興こり,聖祖之祚も隆
ぶることでしょう!」呉主は深く之を恨んだ。

32 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 20:16:10
 是に於いて左右は共に樓玄、賀邵を誣して相逢っているとし,駐まっては共に
耳語大笑し,政事を謗り訕しているから,俱に詰責を被らせるべきであるとした。
玄を送って廣州に付け,邵は原して復職させた。既にして而して復た玄を交趾に
徙すこととし,竟に之を殺した。之を久しくして,何定の奸穢なることが發覚し
て聞こえることとなり,亦た誅に伏したのである。
 羊祜は江陵より帰ると,コ信を修めることに務めて以って呉人を懷けようとし
た。兵を交わす毎に,日を刻んで戰を方じ,掩襲之計を為さなかった。將帥で譎
計を進めることを欲す者が有ると,輒ち醇酒を以て飲ませ,言うこと得られない
ように使た。羊祜は出軍して呉の境に行くと,谷(穀物)を刈りとって糧と為し,
皆侵した所を計って,絹を送って之を償った。衆を江、沔に会めて遊獵する毎に,
常に晉地に止まった,若し禽獸が先ず呉人に傷つけられる所と為っていて而して
晉兵が得し所と為った者は,皆之を送り還した。是に於いて呉の邊境の人は皆ス
び服すことになった。羊祜は陸抗と境を対していたが,命を使て常に通じさせて
いた。陸抗が羊祜に酒を遣わしたが,羊祜は之を飲んで疑わなかった;陸抗が疾
んで,羊祜に薬を求めてきたところ,羊祜は以って藥を成して之に與え,陸抗は
即ち之を服した。人は多くが陸抗を諌めたが,陸抗曰く:「豈に人に鴆を盛る羊
叔子で有ろうか!」陸抗は其の邊戍(辺境の兵たち)に告げて曰く:「彼らはコ
を為すことを専らにし,我らは暴を為すことを専らにしている,是れでは戰わず
して而して自ら服してしまうことになる。各おの界を保ち分かつのみとし,細利
を求めること無いように。」呉主は二境が交わり和していると聞き,以って陸抗
に詰めよった,陸抗曰く:「一邑一郷とて以って信義を無くす可からざるもので
す,況んや大國においてをや!臣が此れに如かざるなら,正しくに是れ其の徳を
彰らかにしてしまい,羊祜を傷なうところなど無くなりましょう。」

33 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 20:24:02
 呉主は諸將之謀を用い,數(たびた)び晉の邊境を侵し盜んだ。陸抗は上疏して
曰く:「昔夏に多罪有れば而して殷湯は師を用い,紂が淫虐を作せば而して周武
が鉞を授けました。苟くも其の時無かりせば,大聖を復すと雖も,亦た宜しく威を養
い自らを保つべきなのでございます,輕がるしく動く可きでありません。今農に力め
て國を富ますことにも,官を審らかにして能に任せることにも,黜陟を明らかにして,
刑賞を慎むことにも,諸司に訓示するにコを以ってし,百姓を慰撫するに仁を以っ
てすることにも務めず,而して諸將の徇名を聴きいれて,兵を窮させ武を黷し,動し
た費が萬計ともなって,士卒が調瘁し,寇が衰えを為さざることとなっているのに而
して我らは已にして大いに病んでおります。今帝王之資を争わんとしているのに而
して十百之利に蒙昧であるなど,此れ人臣之奸便というもので,國家之良策に非ざ
ることですぞ!昔齊、魯は三たび戰い,魯人は克つこと再びしたものの,而して踵を
旋さぬうちに亡びました。何にか則ってでしょうか?大小之勢いが異なっていたから
です。況んや今師の克ち獲た所は,不補所喪(喪いし所を補っているといえましょう
か)哉?」呉主は從わなかった。
 羊祜は中朝の權貴に結び附こうとしなかったため,荀勖、馮紞之徒は皆之を惡ん
だ。從甥の王衍は嘗て羊祜に詣でて陳事し,その辭は甚だ清辯であった;しかし羊
祜は之を然らずとしたため,王衍は衣を拂って去った。羊祜は賓客を顧みて謂って
曰く:「王夷甫は方(まさ)に當たるに盛名を以ってして大位に処すべきかたであろう,
然りながら衆俗を敗れしめ王化を傷つけるのは,必ずや此の人であろう。」江陵を
攻めるに及び,羊祜は軍法を以って將に王戎を斬りすてようとした。王衍は,王戎
の從弟であったため,故に二人は皆之を憾(うら)み,言論の多くが羊祜を毀し,
時の人は之が為に語って曰く:「二王は當に國たるべきであるのに,(つまらぬこと
をいう)羊公はコが無い。」

34 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 20:27:08
272年終了で晉紀1終わり。今はここまで。

35 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 22:52:44
ユー! 晉紀の最後までやっちゃいなよ。

36 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 19:34:59
>>35
残念ながらそこまでのモチベーションは無いのです。
それでは晉紀2をはじめるのだ。

  世祖武皇帝上之下 泰始九年(癸巳,西暦273年)

 春,正月,辛酉,密陵元侯の鄭袤が卒した。
 二月,癸巳,樂陵武公の石苞が卒した。
 三月,皇子祗を立てて東海王と為した。
 呉は陸抗を以って大司馬、荊州牧と為した。
 夏,四月,戊辰朔,日有食之(日食が有った)。
 初め,ケ艾の死せるに,人は皆之を冤罪であるとしたが,而して朝廷では之が為
に辨ず者など無かった。帝が即位するに及び,議郎であった敦煌(出身)の段灼が
上疏して曰く:「ケ艾の心は至忠を懐いておりました,而るに反逆之名を荷わせられ,
巴、蜀を平定しながら而うして三族之誅を受けました。艾の性は剛急でありまして,
功を矜(ほこ)って善を伐し,朋類と協同すること能わなかったものですから,故に之
を肯理すもの莫かったのです。臣が竊いますに以為らく艾は本もとは屯田掌犢の人
でありました,寵位(寵遇と位階は)已にして極まり,功名已にして成されたからには,
七十の老公は,復た何をか求む所あったでしょうか!正しく以って劉禪が降りし初め
には,遠くの郡は未だ附かずにおりました,そのため令を矯め承製し,權力で社稷を
安んぜんとしたのです。鍾會は悖逆之心を有しておりまして。ケ艾の威名を畏れた
ため,其の疑似に因って,其の事を構成したまでなのです。艾は詔書を被るや,即ち
強兵を遣わし,身を束ねて縛に就き,顧りみ望むこと敢えてしませんでした,誠に自
ら知ることに先帝に奉り見えたなら,必ずや當に死すべき之理など無くなろうとみて
いたのです。會が誅を受けて之後,艾の官屬將吏は,愚かしくも戇して相聚まり,自
ら共になって艾を追いかけ,檻車を破壊して,其の囚執を解きました。艾は困地に
在って,狼狽して據るものを失ったとはいえ,未だ嘗て腹心之人と平素より之謀など
有したことなどなかったわけですが,獨り腹背之誅を受けてしまいました,豈に哀し
からざることでしょうか!陛下が龍興せられ,その大度を闡弘せらるからには,謂わ
ば艾を舊墓に歸葬し,其の田宅を還し,平蜀之功を以って其の後に封を継がしめ,
艾の闔棺を使て謚を定めしむことをお聴きいれる可きことかとぞんじます,そうなさ
るなら死しても恨む所とて無くなりましょうし,則ち天下の徇名之士も,立功之臣を思
いかえし,必ずや湯火に(身を)投げだし,陛下の為に死すことを楽しみとすることで
ございましょう!」帝は其の言を善しとしたが而して未だ從うこと能わなかった。帝は
給事中であった樊建に以って諸葛亮之蜀を治めたことを問うに会うと,曰く:「吾獨り
だけは諸葛亮の如かる者を得て而して之を臣とできないのか?」樊建は首を稽げて
曰く:「陛下はケ艾之冤罪を知りながら而して直すこと能いませなんだからには,諸
葛亮を得ると雖も,得らるのは馮唐之言に如くものさえ無いのでは!」帝は笑って
曰く:「卿の言は我が意を起たせたわ。」乃ちケ艾の孫の朗を以って郎中と為した。

37 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 19:44:22
 呉人で祥瑞を言う者が多かったため,呉主は以って侍中の韋昭に問うたところ,
韋昭は曰く:「此れ家人が筐篋中物なるのみ(耳)!」韋昭は左國史を領していた,
呉主は其の父の為に紀を作らせようと欲したが,昭は曰く:「文皇は帝位に登りま
せんでしたからには,當に傳と為すべきでありまして,當に紀を為すべきでありま
せん。」呉主はスばず,漸いに責怒に見えることになった。韋昭は憂懼し,自ら衰
え老いたと陳べて,侍、史二官を去ることを求めたが,聽きいれられなかった。時
に疾病を有したため,醫藥と監護があり,之を持つこと益すます急となった。呉主
は群臣と酒を飲むにあたって,能否を問わず(飲める飲めないに関わらず),率す
るに七升を以って限りと為した。しかし韋昭に至ると,獨りだけ茶を以って之に代
えていたが,(機嫌を損ねてから)後には更めて逼り強いるに見えることとなった。
又た酒の後には常に侍臣を使て公卿を嘲弄せしめると,私(ひそ)かに短(過失)
を摘発し以って歡びと為した;そのうえで時に愆失が有れば,輒ち收縛に見え,
至っては誅戮に於けるほどであった。韋昭は以って為すに外では相毀傷しあい,
内では尤恨を長じさせ,群臣を使て睦まじめず,佳事を為さしめざるため,故に
但だたんに經義を難問す而已となった。呉主のほうでも以為らく詔命を奉じず,
意は忠盡くさざるに,前後の嫌忿を積もらせ,遂に韋昭を収めて獄に付けた。
韋昭は獄吏に因って上辭し,著書せし所を献じて,此を以って(赦)免を求めるこ
とを冀った。而しながら呉主は其の書の垢故を怪しみ,更めて詰責を被らせ,遂
に韋昭を誅すと,其の家を零陵に於けるに徙した。
 五月,何曾を以って司徒を領させた。
 六月,乙未,東海王の司馬祗が卒した。
 秋,七月,丁酉朔,日食が有った。
 詔がくだされて公卿以下の女(むすめ)を選んで六宮に備えることとし,蔽い匿し
たる者が有れば以って不敬であるとして論じさせた。采擇が未だ畢わらぬうちに,
權力で天下に嫁娶を禁じた。帝は楊後を使て之を擇ばしめたところ,後は惟だ潔
白長大なるもののみを取りて而して其の美しき者を捨てた。帝は卞氏の女(むすめ)
を愛でると,之を留めんと欲した。後(皇后)曰く:「卞氏は三世にわたる後族(皇后
となった一族)です,卑位を以って屈させる可きでありません。」帝は怒ると,乃ち自
ら之を擇び,選に中たった者は絳紗を以って臂を系(繋)がれ,公卿之女(むすめ)
は三夫人、九嬪となり二千石、將、校の女(むすめ)は良人以下を補うこととなった。
 九月,呉主は悉く其の子弟を封じて十一王と為し,王は三千の兵を給された。大赦した。
 是歳,鄭沖は壽光公を以って罷めさせられた。
 呉主の愛姫が遣わした人が市に至って民の物を奪ったため,司市中郎將の陳聲
は素より呉主からの寵を有していたため,之を繩につけるに法を以ってした。姫が
呉主に訴えると,呉主は怒り,他事に假りだてて燒いた鋸で陳聲の頭を斷ちおとし,
其の身を四望之下に於いて投げすてた。

38 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 19:49:30
世祖武皇帝上之下泰始十年(甲午,西暦274年)

 春,正月,乙未,日有食之(日食が有った)。
 閏月,癸酉,壽光成公の鄭沖が卒した。
 丁亥,詔に曰く:「近世以來,内寵に由って以って后妃に登ったものの多くが,尊
卑之序を乱してきた;そこで今より(自)は妾媵を以って正嫡と為すこと得られな
いものとす。」幽州を分けて平州を置いた。
 三月,癸亥,日食が有った。
 詔がくだされ又たも良家及び小將吏の女五千餘人を取りいれ宮に入れて之を選
ぶこととしたため,母子の號哭が宮中に於いて,聲が外に於けるに聞こえた。
 夏,四月,己未,臨淮康公の荀が卒した。
 呉の左夫人である王氏が卒した。呉主は哀念し,數月のあいだ出ず,葬送は甚
だ盛んであった。時に何氏が以って太后であった故,宗族は驕であった。呉主の
舅子の何都の貌(かお)が呉主に類していたため,民の間に訛言があった:「呉主
は已に死んでおり,立っている者は何都である也。」會稽でも又た訛言があった
:「章安侯の孫奮こそ當に天子と為るべきである。」孫奮の母の仲姫の墓は豫章に
在った,豫章太守の張俊は之が為に掃除された。臨海太守の奚熙は會稽太守の郭誕
に書を与え,非議國政;郭誕は但だたんに奚熙に書を白しただけで,妖言を白すこ
としなかった。しかし呉主は怒り,郭誕を収めて獄に系(留)したため,郭誕は懼
れた。功曹の邵疇曰く:「この疇が在ります,明府は何をか憂えんか?」遂に吏に
詣でて自ら列曰し:「この疇は本郡に廁身し,位は朝右を極めております,以って
□沓之語に噂されていることは,本より事實に非ざるもの,其の醜聲を疾み,聞き
見るに忍びません,欲含垢藏疾,不彰之翰墨,喧噪を鎮め平静に帰させ,之を使て
自ら息つかせたのです。故に誕は其の是とする所に屈し,默って以って從うに見え
たのです(それを黙認したのです)。此之愆を為したこと,實はこの疇に於けるに
由ったものなのです。死から逃れることなど敢えていたしますまい,罪を有司に帰
すしだいです。」因って自殺した。呉主は乃ち郭誕を死から免じ,建安に送付して
船を作らせた。其の舅で三郡督の何植を遣わして奚熙を収めさせた。熙は兵を発し
て自らを守らんとしたが,其の部曲は熙を殺して,首を建業に送った。又た張俊を
車裂きし,皆夷三族とした。並んで章安侯の孫奮及び其の五子を誅した。
 秋,七月,丙寅,皇后楊氏が殂した。初め,帝は以って太子が不慧であったため,
嗣を為すことに堪えないことを畏れ,常に密かに以って後を訪った。後曰く:「子
を立てるは長を以ってし賢を以ってせざるもの,豈に動く可きことでしょう!」
鎮軍大將軍の胡奮の女(むすめ)が貴嬪と為っていて,帝に於いて寵を有していた,
後(皇后)の疾が篤くなると,帝が貴嬪を立てて後(后)と為し,太子に安んぜざ
ることを致すであろうと恐れ,帝の膝を枕にして泣いて曰く:「叔父である楊駿の
女(むすめ)の芷にはコ色が有ります,願わくば陛下には以って六宮を備えられます
よう。」帝は涕を流して之を許した。

39 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 19:52:30
 以前太常の山濤は吏部尚書と為っていた。濤は典選すること十餘年,一官が
缺ける毎に,輒ち才資ありて為す可き者を擇んで數人を啓擬し,詔旨を得て向
う所が有ることとなってから,然る後に之を顯奏した。帝之用う所で,或いは
舉首に非ざるため,衆情は察せず,以濤輕重任意,言之於帝,帝は益すます之を
親愛した。濤が人物を甄拔するにあたり,各おの題目を為して而して之を奏上し
たため,時は稱えて「山公啓発事」とした。
  山濤は嵇紹を帝に於いて薦め,請うに秘書郎と為すを以ってすることとし,
帝は詔を発して之に征かせた。嵇紹は以って父の康が罪を得ていたことから,私
門を屏居しており,辭して就かないことを欲した。濤は之に謂って曰く:「君が
為に之を思うこと久し矣,天地の四時というものには,猶ち消息が有る,況んや
人に於いてをや!」紹は乃ち命に應じ,帝は以って秘書丞と為した。
  初め,東關之敗れるや,文帝は僚屬に問うて曰く:「近日之事,誰にか其の
咎を任ぜんか?」安東司馬の王儀は,王修之子であったが也,對して曰く:「責
は元帥に在るものです。」文帝は怒って曰く:「司馬は罪を孤(われ)に委ねよ
うと欲するのか邪!」引き出して之を斬りすてた。王儀の子の王裒は父の非命を
痛み,隱居して教授した,三たびの征も七たびの辟も,皆就かなかった。未だ嘗
て西へ向かって而して坐らず,廬は墓側に於けるとし,旦夕柏に攀して悲しみ號
し,涕涙が樹に著わされて,樹は之が為に枯れてしまった。《詩》を讀んで「哀
し哀しや父よ母よ,我を生みて劬勞す」に至ると,未だ嘗て流涕(なみだ)を流
すこと三たび復さざることなかったため,門人は之が為に《蓼莪》を廃した。
家は貧しかったが,口を計って而して田し,身を度って而して蠶した;人が或い
は之に饋そうとしても,受けず;之を助けようとしても,聽きいれなかった。諸
生は密かに麥を刈るを為し,裒輒ち之を棄てた。遂に仕えぬまま而して終わった。
  臣光曰く:昔舜は鯀を誅したが而して禹は舜に事え,至公を廃すこと敢えて
しなかった也。嵇康、王儀は,その死皆其の罪を以ってせざるものであった,そ
のため二子は晉室に仕えなかったが可というものである也。嵇紹は苟くも蕩陰之
忠を無くしたのだから,殆んど君子之譏りを免れまい!

40 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 20:01:04
 呉の大司馬の陸抗は病に疾み,上疏して曰く:「西陵、建平は,國之蕃
表であります,即ち上流に処して,二つの境に敵を受けております。若し
敵が舟を泛して流れに順い,星奔るがごとく電邁るがごとくすれば,他の
部曲に援けを恃んで以って倒れ縣かったものを救う可きに非ざることとな
りましょう。此れ乃ち社稷安危之機でありまして,非徒封疆侵陵小害也。
臣の父である陸遜は,昔西垂に在って上言いたしました:『西陵は,國之
西門であります,雲って守るに易かるも,亦た復し失うに易いものです。
若し守れざること有れば,但だ一郡を失うのみに非ずして,荊州は呉の有
すに非ざることとなりましょう也。其の虞を有すが若かれば,當に國を傾
けてでも之を爭うべきです。』臣は前より精兵三萬を屯すことを乞うてき
ました,而しながら主る者は循常しておりまして,未だ差し赴けること肯
われておりません。歩闡のことあって自り以後,益更損耗。今や臣が統め
し所は千里ともなり,外は強對を御し,内は百蠻を懐にしておりますうえ,
而して上(流)も下(流)も兵に見えておりますのに,財は數萬有るのみ,
羸敝も日ごと久しく,以って變を待つにも難しいありさまです。臣は愚か
しくも,以為らく諸王は幼沖でありまして,兵馬を用いること無くなった
ため以って要務を妨げ;又た,黄門宦官が占募を開き立てたため,兵も民
も役務を避けて,逋逃して占に入っております。乞いねがいますに特に簡
閲の詔をくださいまして,一切料出し,以って疆場受敵の常處を補わせ,
臣の所部するところを使て八萬を満たすに足らしめ,省みて衆務を息つか
せ,力を並べて御りに備えさせられますように,庶幾(こいねが)わくば
を無くしてくださいますように。若し其れ然らざるなら,深く憂う可きこ
ととなりましょう也!臣の死せる之後には,乞いねがわくば以って西方は
屬と為さしますように。」卒すに及び,呉主は其の子の晏、景、玄、機、
雲らを使て其の兵を分け將いさせた。陸機、陸雲は皆屬文を善くしたため,
名は世に於いて重んじられた。
 初め,周魴之子の周處は,その膂力絶人であり,細行を修めず,郷里は
之に患った。周處は嘗て父老に問うて曰く:「今時は和し歳ごとに豐かに
なっているのに而して人は樂しまずにいる,何ぞや?」父老は歎じて曰く
:「三害が除かれずにいるのに,何ぞ之を樂しむこと有ろうか!」周處曰
く:「何をか謂わんとしているのだ也?」父老曰く:「南山の白額虎,長
橋の蛟,並びに子(きみ)がその三つを為しているからだ矣。」周處曰く:
「患う所に若いて此れを止めよというなら,吾は能く之を除いてみせよ
う。」乃ち入山して虎を求め,之を射殺すると,因って(川の)水に投げ
いれ,(餌に誘きだされた)蛟を搏殺した。遂に陸機、雲に従い學問を受
け,志を篤くして讀書し,節を砥ぎすまし行いを礪き,比して期年に及び,
州府が交わり辟した。

41 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 20:04:59
 八月,戊申,元皇后を峻陽陵に於いて葬った。帝及び群臣は除喪即吉,
博士の陳逵が議して,以為らく:「今の時の所行は,漢の帝が權制したも
の;太子は國事を有すこと無いなら,自ら宜しく終服すべきであります。」
尚書の杜預が以為らく:「古には(者)天子、諸侯は三年之喪,始同齊、
斬,既にして葬られれば服を除き,諒闇にて以って居し,心喪にて制を終
えたものです。故に周公は言わず高宗は服喪すこと三年して而して諒闇に
雲ってしましたのは,此れ心喪に服したと之文なのでございます也;叔向
は景王が喪を除したのを譏らず而して其の宴で樂しんだこと已にして早か
ったと譏ったのであります,既にして葬られたのだから應じて除した(の
は問題ない)が,而して諒闇之節を違えたこと明らかであったからです也。
君子之禮に於けるや,諸内に存す而已(のみ)。禮は玉帛之謂いに非ざる
ものでありますからには,喪も豈に衰麻之謂いでありましょうや乎!太子
とは出れば則ち軍を撫すもの,守らば則ち國を監るもの,事えるのを無く
すこと為せぬものです,宜しく哭を卒し衰麻を除き,而して諒闇を以って
三年を終えるべきであります。」帝は之に從った。
 臣光曰く:規矩は方圓に於けるを主るものである,然るゆえ庸工が規矩
を無くせば,則ち方圓は得ることも而して制すことも可からざることとな
る;おなじく衰麻は哀戚に於けるを主るものである,然るゆえ庸人は衰麻
を無くせば,則ち哀戚もまた得ることも而して勉めることも可からざるこ
ととなるのである也。《素冠》之詩,正為是矣。杜預が《經》、《傳》を
巧みに飾りたてて以って人情に(阿り)附いたのは,辯則辯(詭弁の弁と
いうものであろう)矣,臣は陳逵之言の質略にして而して敦實なるに若か
ずと謂っておく。
 九月,癸亥,大將軍の陳騫を以って太尉と為した。
 杜預は以って孟津の渡しばが險難であるため,富平津に於いて河橋を建
設することを請うた。議者は以為らく:「殷、周の都とせし所であって,
聖賢を歴しても而して作さざること,必ずや立つる可からざる故がありま
しょう。」預は固く請うて之を為すこととした。橋が成るに及び,帝は百
寮を従えて会に臨んだ,觴を舉げて杜預に屬させて曰:「君に非ざれば,
此の橋は立たなかったな。」對して曰く:「陛下之明に非ざるなら,臣も
亦た其の巧を施す所とて無かったことでしょう。」

42 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 20:07:32
  是歲(274年),邵陵詞の曹芳が卒した。初め,曹芳之金墉に廢
遷せらるや,太宰中郎であった陳留の范粲は素服にて拜送し,哀しみは左
右を動かした。遂に疾と称して出ず,陽狂して言わなくなり,寢所は乘車
とし,足は地を履まなかった。子孫に婚宦の大事が有ろうとも,輒ち密か
に焉れを諮り,合えば則ち顔色は變わらず,合わざれば則ち眠寢しても安
んぜず,妻子は此れを以ってして其の旨を知ったのである。子の喬等三人
もまた,並んで學業を棄てて,人事を絶ち,侍疾家庭,足は邑裡を出なか
った。帝が即位するに及び,詔がくだされて二千石の祿を以って病を養っ
ているものに,帛百匹を加え賜るものとしたが,喬は父の疾が篤いことを
以って,辭して受けること敢えてしなかった。粲は言わざること凡そ三十
六年,年八十四,所寢之車に於いて終えた。
  呉は比三年の大疫があった。


  世祖武皇帝上之下咸寧元年(乙未,西暦275年)

 春,正月,戊午朔,大赦し,改元した。
 呉で地を掘ったところ銀尺を得た,上に刻文が有った。呉主は大赦し,
天冊と改元した。
 呉の中書令賀邵は,中風となり言うこと能わざることとなった,職を去
ること數月して,呉主は其の詐りを疑い,酒藏に收め付けると,掠考する
こと千たび數えたが,卒するまで一言も無かったため,乃ち燒いた鋸で其
の頭を断ちきり,其の家屬を臨海に於けるに徙した。又た樓玄の子と孫を
誅した。
 夏,六月,鮮卑の拓跋力微が復た其の子沙漠汗を遣わし入貢してきた,
將に還ろうとするにあたり,幽州刺史の衛瓘が表して之を留めんことを請
い,又た密かに金を以って其の諸部大人に賂して之を離間させた。
 秋,七月,甲申晦,日食が有った。
 冬,十二月,丁亥,宣帝の廟を追尊して曰く高祖とし,景帝を曰く世宗
とし,文帝を曰く太祖とした。
 大疫があった,洛陽の死者は萬を以って數えることとなった。

43 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 20:18:19
   世祖武皇帝上之下咸寧二年(丙申,西暦276年)

  春,令狐豐が卒して,弟の宏が繼立したため,楊欣が之を討ち斬った。
  帝は疾を得ること,甚だ劇しかったため,愈えるに及び,群臣が上壽
してきた。詔に曰く:「每念疫氣死亡者(気が疫んで死ぬ者のことを念ず
毎に),之が為に愴然とする。豈に一身之休息を以って,百姓之艱難を
忘れようか!」諸もろの禮を上げた者は,皆之を絶った。
  初め,齊王攸は文帝に於いて寵を有していた,(文帝は)司馬攸に見
える毎に,輒ち床を撫でて其の小字を呼んで曰く:「此れは桃符の座なの
だぞ!」幾らもなく太子と為そうとすること數(たびた)びであった矣。
臨終のさいに,帝の為に漢の淮南王、魏の陳思王の事を敘して而して泣き
だすと,司馬攸の手を執って以って帝に授けさせた。太后も臨終にあたり,
亦た涕を流して帝に謂って曰く:「桃符の性は急であるのに,而して汝は
兄が為に慈しまぬ,我が若し起てなくなれば,必ずや恐らくは汝は相容れ
ること能わぬこととなろう,だから是を以って汝に屬させるのだ,我が
言を忘れること勿れ!」帝は疾が甚しくなるに及び,朝野は皆が意を司馬
攸に於けるに属させた。司馬攸の妃が,賈充之長女であったため也,河南
尹の夏侯和は賈充に謂って曰く:「卿の二婿は,親疏等しきのみ耳。人
(の上)に立たんとするなら當に徳を立てるべきであろう。」充は答えな
かった。司馬攸は素より荀勖及び左衛將軍の馮紞を悪み傾諂していた,荀
勖は乃ち馮紞を使て帝に説かせて曰く:「陛下は前に日ごと疾み苦しんで
愈えずにいたおり,齊王は公卿百姓が歸す所と為っておりました,太子が
高讓を欲すと雖も,其れ免れるを得られんか乎!宜しく遣わして還藩させ,
以って社稷を安んじさせるべきです。」帝は陰ながら之を納れると,乃ち
夏侯和を徙して光祿勳と為すと,賈充から兵權を奪ったものの,而して位
と待遇は替えること無かった。
 呉の施但之亂があると,或るものが京下督の孫楷について呉主に於いて
譖って曰く:「孫楷は討伐に赴くのに時宜をえず,兩端を懐いております。」
呉主は數(たびた)び之を詰讓し,征為宮下鎮、驃騎將軍。孫楷は自ら疑
い懼れ,夏,六月,妻子を將いて來奔した;そこで車騎將軍を拝し,丹楊
侯に封ぜられた。

44 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 20:21:10
 秋,七月,呉人の或るものが呉主に言って曰く:「臨平湖は漢末より薉塞し
ておりました,長老が言っております:『此の湖が塞がれば,天下は亂れ;
此の湖が開ければ,天下は平らかになる。』と近くでは無故が忽として更めて
開通したとのこと,此れは天下が當に太平となり,青蓋が洛中に入るだろうと
の祥瑞でございましょう。」呉主は以って奉禁都尉である歴陽の陳訓に問うた
ところ,對して曰く:「臣はもはや望氣を能くすことを止めておりまして,湖
之開塞について(天命を知るところまで)達すことわぬのです。」退いて而し
て其の友に告げて曰く:「青蓋が入洛するというのは,將に銜璧之事が有ろう
ということで,吉祥に非ざることだ。」
 或るひとが小石で「皇帝」の字が刻まれているものを献上すると,雲って湖
の岸辺で得たとした。呉主は大赦して,改元し天璽とした。
 湘東太守の張詠が算緡(税の一種)を出さなかったため,呉主は在所に就い
て之を斬りすて,首を諸郡に徇らした。會稽太守の車浚は公清であって政績を
有したが,郡が旱にあい(飢)饑となるに値して,表して振貸せんことを求め
た。呉主は以為らく私恩を収めようとしているのだとし,使いを遣わして梟首
した。尚書の熊睦は微かに諫める所有っただけで,呉主は刀鐶を以って之を撞
殺し,身は完肌するところ無かった。
  八月,已亥,何曾を以って太傅と為し,陳騫を大司馬と為し,賈充を太尉
と為し,齊王の司馬攸を司空と為した。
  呉の歴陽山に七穿駢羅が有って,穿たれた中は黄赤であった,俗に之を石
印と謂った,云わく:「石印の封が發かれれば,天下は當に太平となるべし。」
歴陽の長が石印が發かれたと上言すると,呉主は使者を遣わして太牢を以って
之を祠った。使者は高梯を作して其の上に登ると,硃を以って石に書して曰く:
「楚は九州の渚であり,呉は九州の都である。揚州の士は,天子と作して,四
世にわたり治めてきたから,太平が始まったのである。」還って以って聞かせ
た。呉主は大いに喜び,其の山の神を封じて王と為し,大赦し,明くる年に改
元して曰く天紀とした。
  冬,十月,汝陰王の司馬駿を以って征西大將軍と為し,羊祜を征南大將軍
と為し,皆開府し辟召すものとし,儀同三司とした。

45 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 20:28:19
 羊祜は上疏して伐呉を請うと,曰く:「先帝は西へむかい巴、蜀を平らげ,南
して呉、會を和しました,庶幾くば海内は以って休息せんことを得たいとして
おります。而しながら呉は復たも背信し,邊事を使て更めて興こしております。
夫れ期運とは天の授くる所と雖も,而して功業は必ずや人に因って而して成さ
れるもの,一大舉げて掃滅するのでなくば,則ち兵役無時得息也。蜀が平げら
れし之時には,天下は皆が呉も當に並びて亡ぶべしと謂ったものですが,是よ
り以來,十有三年がすぎております矣。夫れ之を謀ること多かると雖も,之を
決すには獨りとなるを欲すものです。凡そ險阻を以ってして全うを得んとする
者は,其の勢い均しく力敵うを謂うだけなのです耳。若し輕重が齊しからず,
強弱が勢いを異なえたなら,險阻を有すと雖も,保つ可からざることでござい
ます。蜀之國を為すや,險ならざるに非ざるものでしたが,皆雲って一夫が戟
を荷うと,千人でも當たるもの莫かったのです。進兵之日に及び,曾無籓籬之
限,勝ちに乗じて席捲し,成都に逕至したのですが,漢中の諸城は,皆鳥棲と
したまま而して出ること敢えてしませんでした,これは戰う心が無くなったに
非ず,誠に力が以って相抗するに足らざるゆえでありました也。劉禪が降服を
請うに及ぶと,諸營堡(陣営や堡塁)は索然としたまま俱に解散したのです。
今や江、淮之險しきは劍閣に如かず,孫皓之暴は劉禪に於けるより過ぎており,
呉人之困窮せしこと巴、蜀に於けるより甚だしく,而して大晉の兵力は往時に
於けるより盛んなのであります。此際に於いて四海を平壹せずに,而して更め
て兵で阻みあい相守りあったなら,天下を使て征戍に於いて困じせしめること
となりましょう,經歴盛衰(勢いは盛んなときから衰えたときへと経歴してし
まうものです),長く久しくす可からざることです也。今若し梁、益之兵を引
きつれて水陸俱に下りおり,荊、楚之衆が江陵に進み臨みて,平南、豫州が直
ちに夏口を指し,徐、揚、青、兗が並んで秣陵に会すなら,一隅之呉を以って
して天下之衆に當たることとなりましょうから,勢いは分かたれ形は散りぢり
となり,備える所は皆急ぐものとなりましょう。巴、漢が奇兵もて其の空虚に
出て,一たび傾壞に處してしまえば則ち上下は震盪してしまいましょうから,
智者が有ろうと雖も呉の為に謀ること能わないことでしょう矣。呉は長江に縁
って國を為しておりまして,その東西は數千里となっております,敵す所とな
る者が大ならば,寧息を有すこと無くなるのです。孫皓は情(動)を恣にして
意(きもち)に任せ,與下の多くが忌んでおります,將は朝に於いてを疑い,
士は野に於いて困りはて,保世之計も,一定之心も有すこと無くなっているの
です;平常之日には,猶も去就を懐こうとも,兵臨之際には,必ずや應ず者が
有りましょうから,終には力を齊しくして致死すこと能わざること已にして知
る可きなのでございます也。其の俗は急速なれば持久すこと能わず,弓弩や戟

46 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 20:32:18
楯は中國に如かず,唯だ水戰だけが是れ其の便ず所有るのみでありまして,一
たび其の境に入ってしまえば,則ち長江は復た保つ所に非ず,還って城池に趣
くなら,長所をすて去って短所に入ることとなり,吾らが敵に非ざることにな
りましょう也。官軍が縣ねて進み,人が致死之志を有すなら,呉人は内で顧み
て,各おの離散之心を有すことでしょう,此の如くなれば,軍が時に逾えずし
て,克つこと必ず可きこととなりましょう矣。」帝は之を深く納れた。而して
朝議は方に以って秦、涼を憂いと為していた,羊祜は復た表して曰く:「呉が
平げられれば則ち胡は自ら定まりましょう,但だ當に速やかに大功を濟すのみ
であるのです。」議者の多くが同じくせざること有った,賈充、荀勖、馮紞が
尤も以って呉を伐すは不可と為すとしていた。羊祜は歎いて曰く:「天下の意
に如かざること十に事えて常に居ること七、八ともなるが。天の與えしものを
取らざれば,豈に更めて事えんとす者が後の時に於いて恨むこと非ざるといえ
ようか!」唯だ度支尚書の杜預、中書令の張華だけは帝と意を合わせ,其の計
に贊成したのである。
 丁卯,皇后楊氏を立てて,大赦した。後(皇后)は,元皇后之從妹で,美し
く而して婦徳を有した。帝は初め後(皇后)を聘すると,後(皇后)の叔父で
ある楊珧が上表して曰く:「古より一門に二後(二人の皇后)あったもので,
未だ其の宗を全うすこと能わった者は有らず,乞いねがわくば此の表を宗廟
に於いて藏しおき,異日(他日)臣之言の如くなったおりには,以って禍を
免れること得られるようにしてくださいませ。」帝は之を許した。
 十二月,後(皇后)の父である鎮軍將軍の楊駿を以って車騎將軍と為し,
臨晉侯に封じた。尚書の褚略、郭弈は皆楊駿は小器であるから,社稷之重き
を任す可からずと表したが,帝は從わなかった。楊駿が驕傲自得となったた
め,胡奮は楊駿に謂って曰く:「卿は女(むすめ)を恃みとして更めて益す
ます豪となった邪!前世を歴観するに,天家(皇帝の家)と結婚したもので,
未だ門を滅ぼさざる者が有ったためしなし,但だ早いか晚いかという事だけ
あるのみだ。」楊駿曰く:「それで卿の女(むすめ)は天子の家に在らずと
でも?」奮曰く:「我が女(むすめ)は卿の女(むすめ)とちがい婢(はし
ため)と作っているのみ,何ぞ能く損益を為そうぞ!」

47 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 20:33:29
276年終わり。今はここまで。

48 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 22:06:29
ユー! 西晉の最後までやっちゃいなよ。

49 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 20:00:04
>>48
残念ながらモチベーションが沸かない。三国志が絡まないと無理す。
それでは晉紀2の続きを始めるのだ(恋姫無双の鈴々のナレで)

 世祖武皇帝上之下咸寧三年(丁酉,西暦二七七年)

 春,正月,丙子朔,日食が有った。
 皇子裕を立てて始平王と為したが;庚寅,裕は卒した。
 三月,平虜護軍の文鴦が涼、秦、雍州の諸軍を督して樹機能を討ち,之を破った
ため,諸胡二十萬口が來たりて降った。
 夏,五月,呉の將である邵、夏祥は眾七千餘人を帥して來降した。
 秋,七月,中山王の睦が逋亡を招誘したことに坐して,貶されて丹水縣侯と為った。
 流れ星が紫宮の分野に没した。
 衛將軍の楊珧等が建議して,以って為すに:「古には諸侯を封建するとは,王室を
籓衛せんとの所以がありました;今諸王公は皆京師に在りますが,扞城之義に非ざ
ることです。又た,異姓の諸將が邊に居りますが,宜しく親戚を以って参じさせるべ
きです。」帝は乃ち詔をくだして諸王は各おの戸邑の多少を以って三等を為すことと
し,大國には三軍五千人を置き,次國は二軍三千人,小國は一軍一千一百人とした;
諸王で都督と為っていた者は,各おの其の國を徙して相近づけ使むこととした。八月,
癸亥,扶風王亮を徙して汝南王と為し,出して鎮南大將軍と為し,都督豫州諸軍事と
した;琅邪王倫を趙王と為し,督鄴城守事とした;勃海王輔を太原王と為し,監并州
諸軍事とした;東莞王人由を以って徐州に在らしめ,徙封して琅邪王とした;汝陰王
駿が關中に在ったため,徙封して扶風王とした;又た太原王顒を徙して河間王と為し
た,汝南王柬を南陽王と為した。司馬輔は,司馬孚之子である;司馬顒は,司馬孚
之孫である。其の無官の者は,皆遣わして就國させた。諸王公で京師に戀こがれる
ものは,皆涕泣して而して去っていった。又た皇子瑋を封じて始平王と為し,允を濮
陽王と為し,該を新都王と為し,遐を清河王と為した。
 其れ異姓之臣で大功有る者は,皆郡公、郡侯に封じることとなった。賈充を封じて
魯郡公と為し,王沈を追封して博陵郡公と為した。巨平侯の羊祜を徙封して南城郡
侯と為したが,羊祜は固辭して受けなかった。羊祜は官爵を拝す毎に,常に避讓す
ること多く,その至心は素より著わされていたため,故に特に分列之外に申しのべら
れたのである。羊祜は二世に歴事し,職は樞要を典じてきたが,凡そ損益を謀議す
ると,皆其の草稿を焚きすてたため,世は聞くを得るもの莫かったし,進達する所の
人も皆由る所を知らなかった。常に曰く:「官を公朝より拝受しながら,私門に恩を謝
すなどということは,吾の敢えてせざる所である。」
 兗、豫、徐、青、荊、益、梁の七州で大水があった。

50 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 20:05:26
 冬,十二月,呉の夏口督であった孫慎が江夏、汝南に入ると,千餘家を略して
而して去った。詔がくだり侍臣を遣わして羊祜について追討せざる意を問い詰め
るとともに,並んで荊州に移そうと欲した。羊祜曰く:「江夏は襄陽を去ること八百
里でございます,比して賊の訪問を知ったころには,賊は已にして去ること日を經
ております,歩兵の軍が安んぞ能く之を追いえましょうか!師を労すことで以って
免責されんとするのは,臣の志に非ざることです。昔魏武帝が置きし都督の類は
皆州と相接近しあっておりました,それは以って兵勢が合わさるに好ましく離れるが
悪まれた故であったのです。疆場之間は,一彼一此というもの,慎んで守るのみで
あります。若し輒ち州を徙さば,賊の出ずること常など無くなりましょうし,亦た未だ
州の宜しく據るべき所を知らざることとなりましょう。」
 是の歳,大司馬の陳騫が揚州より入朝し,高平公を以って罷めた。
 呉主は會稽の張俶が譖白する所多かったことを以って,甚だ寵任に見え,累遷し
て司直中郎將とし,侯に封じた。其の父は山陰縣の兵卒と為っており,俶の良から
ざるを知っていたため,上表して曰く:「若し俶を用いて司直と為されるなら,(俶に)
罪が有ろうとも,坐に従わざるよう乞いねがいます。」呉主は之を許した。張俶は表
して彈曲二十人を置かせ,不法を糾司することを専らにしたため,是れに於いて吏
民は各おの愛憎を以って互いに相告訐しあうこととなって,獄犴は盈ち溢れ,上下
は囂然とすることとなった。張俶は大いに奸利を為し,驕奢となり暴となった,事が
發覚し,父も子も皆車裂きとなった。
 衛瓘は拓跋沙漠汗を遣わして歸國させた。沙漠汗より人質が入れられ,力微可汗
の諸子で側に在った者の多くが寵を有すこととなった。沙漠汗が歸るに及び,諸部
の大人が共に譖じて而して之を殺した。既にして而して力微の疾は篤く,烏桓王の庫
賢が親近して用事しており,衛瓘より賂を受けて,諸部を擾動しようと欲し,乃ち庭に
於いて礪斧すると,諸大人に謂って曰く:「可汗は汝曹が太子を讒殺したことを恨んで
おり,汝曹の長子を盡く收めて之を殺さんと欲している。」諸大人は懼れて,皆散りぢ
りに走った。力微は憂を以って卒した,時に年は一百四。子の悉祿が立ったが,其の
國は遂に衰えた。
 初め,幽、並二州は皆鮮卑と<与>接しており,東には務桓が有り,西には力微が
有って,邊患を為すこと多かった。衛瓘は密かに計りごとを以って之を(離)間させ,
務桓は降り而して力微は死すこととなった。朝廷は衛瓘の功を嘉して,其の弟を封じ
て亭侯と為した。

51 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 20:11:03
 世祖武皇帝上之下咸寧四年(戊戌,西暦278年)

 春,正月,庚午朔,日食が有った。
 司馬督であった東平の馬隆が上言した:「涼州刺史の楊欣は羌戎の和を失い
ました,必ずや敗れましょう。」夏,六月,楊欣は樹機能之黨である若羅拔能等
と武威に於いて戦い,敗死した。
 弘訓皇后の羊氏が殂した。
 羊祜は病を以ってして入朝を求め,既にして至ると,帝は乘輦して入殿するよ
う命ずると,拜さずに而して坐した。羊祜は面とむかい伐呉之計を陳べ,帝は
之を善しとした。以って羊祜が病んでいたため,數(たびた)び入ること宜しか
らざるべしとし,更めて張華を遣わして就きて問わせ策を籌(はかりめぐ)らせた。
羊祜曰く:「孫皓の暴虐なること已にして甚し,今に於いては戰わずして而して克
つ可きこととなっています。若し孫皓が不幸にして而して沒してしまい,呉人が更
めて令主を立ててしまえば,百萬之衆を有すと雖も,長江は未だ窺う可からざる
ことになりましょう也,將に後患を為すことになります矣!」張華は深く之を然りと
した。羊祜曰く:「吾が志を成しとげる者は,子なり也。」帝は羊祜を使て諸將を臥
護せしめんと欲した,羊祜曰く:「呉を取るに臣が行くこと必ずしもせず,但し既に
して之を平げました後には,當に聖慮を勞すべきのみです耳。功名之際に,臣が
居ることは敢えてないでありましょう。若し事が了しましたならば,當に付授す所有
すべきなら,願わくば審らかに其の人を擇ばれますように也。」
 秋,七月,己丑,景獻皇后を峻平陵に於いて葬った。
 司、冀、兗、豫、荊、揚州に大水があり,螟が稼を傷つけた。詔がくだり主ってい
た者が問われた:「何をか以って百姓を佐(たす)けんか?」度支尚書の杜預が上
疏して,以為らく:「今たびの水災は,東南が尤も劇しいものです,宜しく敕して兗、
豫等諸州には漢代の舊陂に留まり,繕って以って水を外に蓄えさせ,餘りは皆決
瀝させます,饑えた者を令て魚菜螺蚌之饒を盡く得させるのです,此れは目下の
日給之益というものです。水が去りて之後には,之を填淤して田となせば,畝あた
り數鐘を収穫できましょうから,此も又た明くる年之益となります。典牧している種
牛は四萬五千餘頭が有りますが,耕駕に供しておらず,老いて穿鼻せざる者が
有るに至っております,分けて以って民に給わられ,春の耕(作)に使わしむ可き
です;谷(穀物)が登りし(納められた/熟した)之後には,其の租稅に責す(上積
みして回収する),此れも又た數年すれば以って後之益となりましょう。」帝は之に
從い,民は其の利をョりとした。杜預が尚書に在ること七年,庶政を損益すこと,
不可勝數(数えきれないほどとなっていたため),時の人は之を謂うに「杜武庫」と
したが,其の有せざる所無くなったことを言ったのである。
 九月,何曾を以って太宰と為した;辛巳,侍中、尚書令の李胤を以って司徒と為した。

52 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 20:21:05
 呉主は己に勝る者を忌みきらっていた,侍中、中書令の張尚は,張紘の孫で,
為人は辯捷つものであったため,談論が其の表に出る毎に,呉主は以って恨み
を致さんとするを積もらせていた。後に問うた:「孤(わたし)が酒を飲むさまは以っ
て誰にか方ず可きか?」張尚曰く:「陛下は百觚之量を有すでしょう。」呉主曰く:
「尚は孔丘の王ならざるを知っていて,而して孤を以ってして之に方じたのだ。」
因って怒りを發すると,尚を収めた。公卿已下百餘人が,宮に詣でて叩頭し,張
尚の罪を請うて,死を減じて,建安で船を作ること得られるようにとしたが,尋くし
て之を就殺した。
 冬,十月,征征北大將軍の衛瓘を尚書令と為した。是時,朝野は咸(みな)が
太子の昏愚を知っており,嗣と為すこと堪えずにいた,衛瓘はこと毎に陳べ啓発
しようと欲していたが而して未だ敢えて發せずにいた。陵雲台での宴に侍るに會
すると,衛瓘は陽醉してから,帝の床の前に跪いて曰く:「臣には欲すに啓発いた
したき所が有ります。」帝曰:「公が言わんとする所とは何であるか?」衛瓘は言わ
んと欲しながら而して止めること三たび,因って手を以って床を撫でて曰く:「此の
座は惜しむ可きです!」帝は意悟ると,謬ちに因って曰く:「公は真に大いに醉っ
ているのか?」衛瓘は此れに於いて言うこと有るを復たしなかった。帝は悉く東宮
の官屬を召すと,為に宴會を設け,而して尚書に疑事を密封させて,太子を令て
之を決させた。賈妃は大いに懼れると,外の人に倩して對を代わらせたが,(その
対は)多くが古義を引用したものであった。給使の張泓曰く:「太子の學ばざること,
陛下も知る所ですのに,而して詔に答えたものは古義を引くことが多いようす,必
ずや草稿を作った主が責められ,更めて譴負を益されましょう,意を以って對した
ものに直すに如かず。」妃は大いに喜ぶと,張泓に謂って曰く:「我が為に好ましい
答を便じてくれたなら,富貴は汝と之を共にしようぞ。」張泓は即ち具草すると太子
を令て自寫(自筆)させた。帝は之を省みて,甚だスび,先ず以って衛瓘に示した,
衛瓘は大いに踧□したため,衆人は乃ち衛瓘に嘗て言が有ったことを知った也。
賈充は密かに人を遣わして語らせたところ妃は云った:「衛□瓘の老奴め,幾らも
なく汝の家を破ってくれよう!」
 呉人は皖城を大いに佃し,入寇を謀ろうと欲した。都督揚州諸軍事の王渾が揚
州刺史の應綽を遣わして之を攻破させ,斬首すること五千級,其の積みあげた穀
百八十餘萬斛を焚きすて,稻田四千餘頃を踐し,船六百餘艘を毀させた。
 十一月,辛巳,太醫司馬の程據が雉頭裘を献じてきたため,帝は之を殿前で焚
きすてた。甲申。内外に敕して敢えて奇技異服を献ず者が有れば,之を罪とするこ
ととした。

53 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 20:27:33
 羊祜は疾篤くなると,杜預を自らの代わりに挙げた。辛卯,杜預を以って鎮南大
將軍、都督荊州諸軍事と為した。羊祜が卒すると,帝は之を哭すこと甚だ哀しんだ。
是日,大寒となり,涕(なが)れた涙が沾(ぬ)らした鬚鬢は皆冰と為った。羊祜は遺
令で南城侯の印を以って柩に入れることを得ないようにとしていた。帝曰く:「羊祜が
固く謙讓すること歴年となっていた,身は沒してもその謙讓は存している,今聽きい
れて本の封に復し,以って高邁な美徳を彰らかとしよう。」南州の民は羊祜が卒した
と聞き,之が為に市を罷め,巷で哭す聲が相接しあった。呉の邊を守っている將士
も亦た之が為に泣いた。羊祜は峴山に游ぶを好んでいた,襄陽の人は其の地に碑
を建て廟を立て,歳時には祭祀をし,其の碑を望む者は流涕せざること無かったこ
とから,因って之を墮涙碑と謂ったのである。
 杜預は鎮に至ると,精銳を簡抜し,呉の西陵督である張政を襲うと,之を大いに
破った。張政は,呉之名將であったため也,備え無かりしを以って敗北を取ったこ
とを恥じいり,實を以って呉主に告げるを以ってしなかった。杜預は之を離間させん
と欲し,乃ち其の獲た所を還すよう上表した。そのため呉主は果たして張政を召し
て還すと,武昌監の留憲を遣わして之に代えさせた。
 十二月,丁未,朗陵公の何曾が卒した。何曾は自らを厚くして奉養すること,人
主に於けるより過ぎていた。司隸校尉である東萊(出身)の劉毅は數(たびた)び何
曾は侈汰であること度が無いと劾奏(弾劾の奏上)をしていたが,帝は其の重臣で
あることを以って,不問としていた。卒すに及び,博士であった新興(出身)の秦秀
が議して曰く:「何曾の驕奢さが度を過ぎていたこと,その悪名は九域を被っており
ました。宰相や大臣というものは,人之表儀であります,若(けだ)し生きているあい
だは其の情を極め,死しても又た貶すこと無くしておくものです,王公貴人も復た何
をか畏れんか!謹しんで《謚法》を按じますれば,『名と實が爽なるは曰く繆とす,
怙亂にして肆行なるは曰く丑とす』とあります,宜しく繆丑公と謚すべきです。」帝は
策して謚して曰く孝とした。
 前の司隸校尉であった傅玄が卒した。玄の性は峻急であり,奏劾の有る毎に,
或いは日が暮れるに値すころから,白簡を捧げもち,簪帶を整え,竦踴したまま寐
ず(床に付かず),坐したまま而して旦(よあけ)まで待った。是に由って貴游(貴族
で遊びあるいているもの)は震懾し,台閣には(清廉な気)風が生じた。玄は尚書左
丞であった博陵(出身)の崔洪と善くしていた,崔洪も亦た清獅ノして骨鯁であって,
好んで面前で人の過ちを折責したが,而して退けば後言すること無かったため,人
は是を以ってして之を重んじたのである。
 鮮卑の樹機能が久しく邊患を為していたため,僕射の李喜が兵を徴発して之を討
つことを請うたものの,朝議は皆が以為らく出兵は重事であるし,虜は憂うに足りず
とした。

54 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 20:36:27
 世祖武皇帝上之下咸寧五年(己亥,西暦279年)

 春,正月,樹機能が涼州を攻め陷とした。帝は甚だ之を悔むと,朝廷に臨んで
而して歎じて曰く:「誰か能く我が為に此の虜を討つ者あろうか?」司馬督の馬隆
が進みいでて曰く:「陛下が臣に任すこと能うれば,臣は之を平げること能うもの
です。」帝曰く:「必ずや能く賊を平げうるというなら,何ぞ任じまいと為そうか,方
略の何如を顧るのみだ!」隆曰く:「臣願わくば勇士三千人を募りとうございます,
從り來たる所を問うところ無くし,之を帥して以って西へむかいますなら,虜不足
平也。」帝は之を許した。乙丑,馬隆を以って討虜護軍、武威太守と為した。公卿
は皆曰く:「見えている兵は已にして多いわけですから,ざまに賞募を設けるは
宜しくすべきではありません,馬隆は小將であって妄言しております,信ずに足り
ません。」帝は聽きいれなかった。馬隆は能く弓四鈞を引くもの、弩九石を挽く者
を募って之を取りたてることとし,標を立てて簡試することとした。そうして旦(よあ
け)より日中に至るまでで,三千五百人を得た。馬隆曰く:「足れり。」又た請うて自
ら武庫に至って仗を選びたいとし,武庫令が馬隆と忿り爭ったため,御史中丞が
馬隆を劾奏した。馬隆曰く:「臣は當に命を戰場に畢えんとすべくしているのに,
武庫令は乃ち給すにあたり魏の時の朽ちた仗を以ってしようとしました,これは陛
下が臣を使わした之意の所以に非ざることです。」帝は命じて惟だ馬隆が取る所
とせよとし,仍ち三年の軍資を給して而して之を遣わした。
 初め,南單于の呼廚泉は兄である於扶羅の子の豹を以って左賢王と為してい
たが,魏武帝が匈奴を分けて五部と為すに及び,豹を以って左部帥と為した。豹
の子の淵は,幼くして而して俊異であって,上黨の崔游に師事して,博く經史を習
った。嘗つて同じ門生であった上黨の硃紀、雁門の范隆に謂って曰く:「吾は常に
隨、陸に武が無く,絳、灌に文が無かったことを恥じてきた。隨、陸は高帝に遇っ
たものの而して封侯之業を建てること能わず,降、灌は文帝に遇いながら而して
庠序之教を興すこと能わなかった,豈に惜しまざらんか哉!」是に於いて學と武の
事を兼ねようとするようになった。長ずるに及び,その猿臂は射を善くし,膂力は
人に過ぎ,姿貌は魁偉であった。任子と為って洛陽に在ると,王渾及び子の濟は
皆之を重んじ,屢ねて帝に於いて薦めたため,帝は召しよせてこれと語りあい,
之にスんだ。王濟曰く:「劉淵は文武に長才を有しております,陛下が東南之事を
以って任せたなら,呉は平げるにも足らざることでしょう。」孔恂、楊珧曰く:「我ら
が族類に非ざるのですから,其の心は必ずや異なりましょう。劉淵の才器は誠に
比すべきあいてが少ないものですが,然りながら重任す可きでありません。」涼州
が覆り沒すに及び,帝は問將於李喜,對して曰く:「陛下が誠に能く匈奴の五部の
衆を徴発せられて,劉淵に一將軍之號を假しあたえ,之を將とし使わして而して
西へむかわせたなら,樹機能之首は指した日のうちに而して梟せらる可きことでし
ょう。」孔恂曰く:「劉淵が樹機能を梟すこと果たしますなら,則ち涼州之患いは方
(まさ)に更に深まるのみとなりましょう。」帝は乃ち止めた。

55 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 20:42:51
 東萊(出身の)王彌の家は世に二千石たりてきており,彌は學術勇略を有し,
騎射を善くしたため,青州の人は之を謂うに「飛豹」とした。然して任俠を喜ん
でいたため,處士であった陳留の(人)董養が見えて而して之に謂って曰く:
「君は亂を好み禍ちを楽しんでおりますが,若し天下に事が有れば,士大夫に
作れないことでしょう。」劉淵は王彌と友となり善くしていたため,謂って稱えて
曰く:「王、李とは郷曲を以って見え知っている,こと毎に相稱え薦めあってきた,
適足為吾患耳。」因って歔欷して涕を流した。齊王の司馬攸は之を聞くと,帝に
於いて言って曰く:「陛下には劉淵を除かずにおりますが,臣は并州が久しく安
んずることを得ないと恐れます。」王渾曰く:「大晉は方(まさ)に信を以ってして
殊俗を懐けてきたものだ,奈何(いか)でか無形之疑いを以って人の侍子を殺
すというのか?それで何で徳度を弘められようか!」帝曰:「渾の言や是なり。」
劉豹が卒すに会い,淵を以って代わりとし左部帥と為した。
 夏,四月,大赦した。
 部曲督以下の質任を除くこととした。
  呉の桂林太守である修允が卒し,其の部曲は應じて分けられ諸將に給され
ることになった。督將の郭馬、何典、王族等は舊軍で世を累ねてきており,離
別することを楽しまず,呉主が廣州の戸口の實を料ろうとしてきたことに会って,
郭馬等は民心が不安になったのに因って,衆を聚めて廣州督の虞授を攻殺し,
郭馬は自らを都督交、廣二州諸軍事と號すと,何典を使て蒼梧を攻めさせ,
王族をして始興を攻めさせた。秋,八月,呉は軍師の張悌を以って丞相と為し,
牛渚都督の何植を司徒と為し,執金吾の滕修を司空と為した。未だ拜さぬうち
に,更めて滕修を以って廣州牧と為して,萬人を帥して東道に従い郭馬を討た
せることとした。郭馬は南海太守の劉略を殺し,廣州刺史の徐旗を逐いだした。
呉主は又た徐陵督の陶浚を遣わして七千人を將いさせると,西道に従い交州
牧の陶璜と共に郭馬を撃たせることとした。
  呉には鬼目菜が有り,工人である黄耇の家に生じた;買菜というものが有り,
工人である呉平の家に生じた。東觀では圖書を案じて,鬼目と名づけられてい
るのは曰く芝草のことで,買菜とは曰く平慮草のことである。呉主は黄耇を以っ
て侍芝郎と為し,呉平を平慮郎と為し,皆銀印青緩とした。
  呉主は群臣を宴にまねく毎に,鹹(みな)沉醉せ令めた。又た黄門郎十人を
置いて司過と為し,宴の罷わりし之後に,各おの其の闕失を奏上させ,迕視や
謬言など,罔有不舉(余すところなく挙げさせた)。大なるは即ち刑戮を加え,小
なるは記録して罪と為し,或いは人面を剝がし,或いは人の眼を鑿った。是に由
って上下は心を離し,為に力を盡くそうとするもの莫くなったのである。

56 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 20:54:18
 益州刺史の王濬が上疏して曰く:「孫皓は荒淫凶逆でありますから,宜しく速やか
に征伐すべきです,若し一旦あって孫皓が死んでしまい,更めて賢主が立ってしま
えば,則ち敵を強めることになります也;臣は船を作すこと七年,日ごと朽ち敗れて
いるもの(舟)が有ります;臣は年七十となり,死に亡ぶまで日が無くなっております。
(せっかく揃っている)三つの者(条件)が一たび乖れ離れになってしまえば,則ち圖
ること難しくなりましょう。誠に願わくば陛下には事機を失われること無きように。」
帝は是に於いて呉を伐せんと決意した。安東將軍の王渾が表して孫皓が北上せん
と欲しているため,邊戍は皆戒嚴しましょうとの表をするに会い,朝廷は乃ち更めて
議して明くる年出師することとした。王濬の參軍であった何攀は使いを奉じて洛中に
在った,上疏して稱うるに:「孫皓は必ずや敢えて出ないことでしょうが,宜しく戒嚴に
因って,其の易きを掩い取るべきです。
  杜預は上表して曰く:「閏月より以來,賊は但だたんに下に嚴しくするよう敕令す
のみでして,兵の上ること無くなっております。理勢を以ってして之を推しはかります
なら,賊之窮計は,力が兩つを完うせざるため,必ずや夏口以東を保って以って視
息を延べんとすることでしょう,多くの兵に縁って西上し,其の國都を空しくすること
など無いでありましょう。而して陛下には(多数の意見を)聽くこと過ぎております,便
じて用って(他者の意見に意を)委ねて大計を棄てられてしまえば,敵を縱にして患い
が生ずことになります,誠に惜しむ可きです。向使舉而有敗,勿舉可也。今事為之
制,務從完牢,若し或いは成ること有れば,則ち太平之基を開くこととなりましょうし,
成らずとも日月之間(時間)を費やし損なうに過ぎぬのですから,何をか惜しんで而
して一つも之を試みようとしないのですか!當に後年を須つべき若かれば,天の時
にしろ人の事にしろ,常に如かることを得ざるものです,臣が恐れますのは其れが
更まって難しくなってしまうことです。今や萬安之舉を有し,傾敗之慮りも無いからに
は,臣の心は實に了としておりまして,暖昧之見を以ってして自ら後累を取ることな
ど敢えてせざることです,惟だただ陛下には之を察せられんことを。」旬月しても未
だ報ぜられなかったため,杜預は復たも上表して曰く:「羊祜は朝臣に於いて博く謀
ることを先ずせず,而して密かに陛下と共に此の計を施してきました,それ故に益
すます朝臣を令て異同之議を多くせしめているのです。しかしながら凡そ事というも
のは當に利害を以って相校ずべきもの,今此の舉之利は十に八、九を有すのに,
而して其の害は一、二であります,止めれば功を無くすに於くだけとなりましょう。
必ずや朝臣を使て破敗之形ありと言わせましょうが,それも亦た得る可からざるこ
とです(それらの意見を採用してはならないのです),直ちに計を是としても(その計
謀は)己から出たものでなく,功あろうとも(その功績は)その身に在らざるものであ
るゆえ,各おの其の前言之失を恥じ而して之を固守せんとして(破敗之形ありと言
わせて)いるわけです。自頃(ちかごろ)は朝廷の事は大も小も無く,異意が鋒起し
ております,人心は同じからざるものと雖も,亦た由って恩を恃みにし後の患いを慮
らず,故に輕がるしく相同異しあっているのでございます。秋より已來,討賊之形は

57 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 21:00:03
頗る露わとなりましたから,今若し中止すれば,孫皓は或いは怖れて而して生きなん
ことを計りましょう,都を武昌へ徙し,更めて江南の諸城を完璧に修繕させ,其の居
民を遠ざけてしまいましょう,そうなれば城は攻むる可からざることとなって,野には
掠める所とて無くなりますから,則ち明年之計も或いは及ぼす所とて無くなりますぞ。」
帝は方(まさ)に張華と棋を圍んでいた,杜預の表が至るに適うと,張華は推枰斂手
して曰く:「陛下は聖武であらせられ,國は富みて兵は強壮であります,呉主は淫虐
にして,賢能を誅殺しております。當に今之を討つべくば,勞せずして而して定む可
きことでしょう,願わくば以って疑いを為すこと勿らんことを!」帝は乃ち之を許した。
そこで張華を以って度支尚書と為すと,運漕について量計させた。賈充、荀勖、馮
紞が之を爭ってきたため,帝は大いに怒った,そこで賈充は冠を免いで謝罪した。
僕射であった山濤は退くと而して人に告げて曰く:「自ら聖人に非ざれば,外寧んず
れば必ずや内憂が有ろう,今呉を釋してやって外懼と為しておくことが,豈に算に
非ざることといえようか!」
 冬,十一月,大舉して呉を伐すると,鎮軍將軍である琅邪王の司馬[人由]を遣わし
て塗中に出させ,安東將軍の王渾には江西に出させ,建威將軍の王戎には武昌に
出させ,平南將軍の胡奮には夏口に出させ,鎮南大將軍の杜預には江陵に出させ,
龍驤將軍の王濬、巴東監軍である魯國の唐彬には巴、蜀から下らせた,東西凡そ
二十餘萬。賈充に命じて使持節、假黄鉞、大都督と為し,冠軍將軍の楊濟を以って
之に副とさせた。賈充は固より伐呉の不利を陳べ,且つ自ら衰え老いたため,元帥
之任に堪えないと言ってきた。詔に曰く:「君が若し行かないなら,吾が便じて自ら出
よう。」そこで賈充は已むを得ず,乃ち節鉞を受けると,中軍を将いて南して襄陽に
駐屯し,諸軍に節度を為すことになった。
 馬隆は西へむかい温水を渡ると,樹機能等は衆數萬を以って険阻に據って之を
拒んだ。隆は山路が狹隘であることを以って,乃ち扁箱車を作り,木屋を為すと,
車上に於いて施し,轉戰して而して前へすすみ,行くこと千餘里,殺傷したもの甚だ
衆ねかった。馬隆が西へむかってから,音問が斷絶したため,朝廷は之を憂い,
或るものは謂わく已に沒したとした。後に馬隆の使いが夜に到ると,帝は掌を撫で
て歡笑し,朝廷を問詰め,群臣を召して謂って曰く:「若し諸卿の言に従っていたら,
涼州を無くしていたわい。」乃ち詔をくだして馬隆に節を假すと,拜して宣威將軍とし
た。馬隆が武威に至ると,鮮卑の大人である猝跋韓且萬能等が萬餘落を帥して來
たり降った。十二月,馬隆は樹機能と大いに戰い,之を斬りすて,涼州は遂に平げ
られた。

58 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 21:11:13
 詔がくだされて朝臣に以って政の損益を問うたところ,司徒の左長史である傅鹹
が上書して,以為らく:「公も私も不足しているのは,設けられた官が太いに多かる
に由ります。舊の都督は四つが有りましたが,今や監軍を並べてみると乃ち十より
盈れております;禹の分けたりし九州は,今の刺史幾向一倍;戸口は漢に比べて十
分之一となっていますのに,而して置かれた郡縣は更めて多くなっております;虚し
く軍府を立てては,動くこと百たび數えること有るというのに,而して宿衛を益すこ
となど無く;五等の諸侯は,坐したまま(働きもしないのに)官屬を置いております
;諸所の廩給は,皆百姓より出されたものです。此れぞ其の困乏となる所以なのです。
當今の急務とは,官を並べて労役を息つかせ,上下とも農に務める而已に在るのです。」
傅鹹は,傅玄之子である。時に又た州、郡、縣の吏を半ばに省き以って農功に赴かせ
ることが議論され,中書監の荀勖は以って為すに:「吏を省くは官を省くに如かず,
官を省くは事を省みるに如かず,その省事は心を清めるに如かざるものです。昔蕭、
曹が漢朝の宰相たると,其の清靜を戴いたため,民が以って壹に寧んじたことが,
所謂清心というものなのです。浮ついた説を抑え,文案を簡素にし,細苛(細かな苛
め)を略し,小さな過失を宥(ゆる)し,常(法)を變えることを好んで以って利益
を徼えとろうとする者が有れば,必ず其の誅を行うこととするのが,所謂省事という
ものです。以って九寺は尚書に並べおき,蘭台は三府に付けるが,所謂省官というも
のです。若し直ちに大例を作して,凡そ天下之吏は皆其の半ばを減じますならば,
恐らく文武の衆官,郡國の職業は,その劇しさ易しさは同じからざることとなりまし
ょうから,以って一概に之を施す可きでありません。若し曠闕が有れば,皆更め復す
を須つこととし,或いは激務であって而して滋繁(次第に繁雑な務め)となるのであ
れば,亦た不可不重也(重ねざる可きでないといたしましょう)。」



59 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 21:14:40
ここまで晉紀2。

それじゃ晉紀3の訳を始めるのだ。

60 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 21:20:07
それでは  世祖武皇帝中太康元年(庚子,西暦280年)

 春,正月,呉は大赦した。
 杜預は江陵に向かい,王渾は横江に出て,呉の鎮、戍を攻めたたところ,向う所
で皆克った。二月,戊午,王濬、唐彬は丹楊監の盛紀を撃破した。呉人は江磧に
於いて要害となる処には,並んで鉄鎖を以って之を截していた;又た鐵錐を作し
た,長さは丈餘で,江中に暗置し(隠れるように配置し),以って舟艦を逆い拒も
うとしたのである。王濬は大筏數十を作した,方百餘歩,草を縛って人と為し,
甲を被せて仗を持たせると,水を善くす者を令て以って筏を先行させた,鐵錐に
遇うと,錐は輒ち筏に著わされて而して除去された。又た大炬を作った,長さ十
餘丈,大なるものは數十圍ともなり,麻油を以ってそれに灌がせると,船の前に
在させた,鎖に遇うと,然るに炬が之を燒き,須臾にして,融液となって斷絶さ
れた,是に於いて船は礙す所無くなった。庚申,王濬は西陵に克ち,呉の都督で
ある留憲等を殺した。壬戌,荊門、夷道の二城に克つと,夷道監の陸晏を殺した。
杜預は牙門の周旨等を遣わして奇兵八百を帥させて泛舟させ夜に渡江させ,樂郷
を襲った,旗幟を多く張りたて,火を巴山に起てた。呉の都督であった孫歆は懼
れて,江陵督の伍延に書を与えて曰く:「北より來たる諸軍は,乃ち江を飛び渡
ってきた。」周旨等は樂郷の城外に伏兵していた,孫歆は軍を遣わして王濬を出
て拒もうとし,大敗して而して還った。周旨等はそこで伏兵を発して孫歆の軍に
隨って而して入ったが,孫歆は覺らなかったため,直ちに帳下に至り,孫歆を虜
にして而して還った。乙丑,王濬は呉の水軍都督の陸景を撃ち殺した。杜預は江
陵に進み攻め,甲戌,之に克つと,伍延を斬りすてた。是に於いて沅(水)、湘
(水)以南から,交(州)、廣(州)に於けるに接するまで,州郡は皆が風を望
み印綬を送りつけてきたのである。杜預は節を杖にして詔を稱え而して之を緩撫
した。凡そ斬獲する所となった呉の都督、監軍は十四,牙門、郡守は百二十餘人と
なった。胡奮は江安に克った。
 乙亥,詔がくだった:「王濬、唐彬は既にして巴丘を定めたなら,胡奮、王戎と
共になり夏口、武昌を平らげ,流れに順いて長騖し,直ちに秣陵を造せ。杜預は
當に零、桂を鎮め靜め,衡陽を懷輯すべし。大兵の既にして過ぎたれば,荊州の
南の境は固められようから當に檄を傳えて而して定むべし。杜預等は各おの兵を
分けて以って王濬、唐彬に益してやり,太尉の賈充は屯を項へ移すように。」
 王戎は參軍であった襄陽の羅尚、南陽の劉喬を遣わし兵を將いさせて王濬と合
わさって武昌を攻めたところ,呉の江夏太守の劉朗、督武昌諸軍の虞昺は皆降っ
た。虞昺は,虞翻之子である。

61 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 21:46:40
 杜預は衆軍と会議した,或るもの曰く:「百年之寇なれば,未だ盡く克つ可か
らざるものです,方(まさ)に春水が生ぜんとしておりますから,久しく駐まる
ことは難しいでしょう,宜しく來たる冬を俟ち,更めて大舉を為すべきです。」
杜預曰く:「昔樂毅は藉濟して西へむかい一戰して以って強齊に並びたった,今
や兵威は已にして振るわれている,譬えるなら破竹の如し,數節之後には,皆刃
を迎えれば而して解けてしまい,復た手を著す處など無くなろう。」遂に群帥に
方略を指し授け,建業へ逕造することとなった。
 呉主は王渾が南下したと聞くと,丞相の張悌、督丹楊太守の沈瑩、護軍の孫震、
副軍師の諸葛靚を使て衆三萬を帥させて渡江して逆戰させようとした。牛渚に至
ると,沈瑩は曰く:「晉が水軍を蜀に於いて治めること久しい,上流の諸軍は,
素より戒備など無く,名將は皆死んでしまい,幼少が任に當っている,恐らくは
御ること能うまい。晉之水軍は必ずや此に於けるに至ろう,宜しく衆の力を畜(
たくわ)えて以って其の來たるを待つべきだ,之と一戰し,若し幸にも而して之に
勝てば,江西は自ずから清められよう。今渡江して晉の大軍と戰い,不幸にして而
して敗れたなら,則ち大事は去ってしまおう!」張悌曰く:「呉の將に亡びなんと
するは,賢愚の知る所であり,今日のことに非ず(昨日今のことではない)。吾が
恐れるは蜀兵が此れに至らば,衆心が駭れ懼れてしまい,復た整える可からざるこ
とになることだ。今渡江するに及べば,猶も戰いを決す可きものとなる。若し其れ
敗れ喪われても,同じくして社稷に死すのだから,復た恨む所とて無くなろう。
若し其れ克ち捷てば,北の敵は奔り走(のが)れよう,(彼我の)兵の勢いは萬倍
となる,便じて當に勝ちに乗じて南へ上るべし,之に逆らい道に中るにさいし,破
らざるを憂いず。若し子の計の如くすれば,恐らくは士衆は散り盡きてしまい,坐
したまま敵の到るを待つこととなろう,君臣倶に降り,復た一人とて難に死す者が
無いなど,亦た辱しからざらんか!」

62 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 21:56:39
 三月,張悌等は江を濟り,王渾の部將で城陽都尉の張喬を楊荷に於いて圍んだ。
張喬の衆は才七千ほどで,柵を閉ざして降ることを請うてきた。諸葛靚は之を屠っ
てしまおうと欲したが,張悌曰く:「強敵が前に在るからには,宜しく先ず其の小
を事えるべからず,且つ降りしを殺すは不祥である。」諸葛靚曰く:「此屬めらは
以って救いの兵が未だ至らず,少なき力ゆえ敵せざるため,故に且つは偽って降っ
てみて以って我らを緩ませんとしているもので,真に降伏したに非ず。若し之を
捨ておいて而して前へすすめば,必ずや後の患いと為りましょうぞ。」張悌は從
わず,之を撫して而して進んだ。張悌は揚州刺史である汝南の周浚と,陳(陣)を
結んで相對した,沈瑩が丹楊の鋭卒、刀楯五千を帥していたため,三沖の晉兵は,
動けなかった。沈瑩が引き退くと,其の眾が亂れた;將軍の薛勝、蔣班は其の乱
れに因って而して之に乘じたため,呉兵は以って次つぎに奔り潰え,將帥は止め
ること能わなくなった,張喬が後ろより之を撃って,呉兵を版橋に於いて大敗さ
せた。諸葛靚は數百人を帥して遁れ去り,張悌を過ぎ迎え使まんとしたが,張悌
は去ることを肯わなかったため,諸葛靚は自ら往きて之を牽き曰く:「存亡とい
うものは自ら大數の有るもの,卿一人が支える所に非ず,奈何故(何故に)自ら
死を取らんとするのか!」張悌は涕を垂らし曰く:「仲思よ,今日是れこそ我が
死す日なのだ!且つ我は兒童と為りし時に,便じて卿の家の丞相に識られ拔擢さ
れる所と為って,常に其の死を得ざるを恐れてきた,賢者の知顧をえたものだと
の名声を背負うことになったからだ。今や身を以って社稷に徇じられるのだ,復
た何ぞ道ならんか!」諸葛靚は再三にわたり之を牽きつれようとしたが,動かな
かったため,乃ち涙を流して放りだし去った,行くこと百餘歩して,之を顧みる
と,已にして晉兵に殺される所と為っていた,並んで孫震、沈瑩等七千八百級が
斬られたため,呉人は大いに震えることとなった。

63 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 21:59:38
 初め,詔書では王濬を使て建平に下りきたれば,杜預から節度を受け,建業に
至れば,王渾から節度を受けることとなっていた。杜預は江陵に至ると,諸將に
謂って曰く:「若し王濬が建平を得たなら,則ち流れに順い長驅させよ,威名は
已にして著われているのだ,宜しく我に於ける制約を受け令むるべからず;若し
克つこと能わざるなら,則無縁得施節度(則ち節度を施すことを得るような縁る
べなどもとより無くなろう)。」王濬が西陵に至ると,杜預は之に書を與えて曰
く:「足下は既にして其の西籓を摧(くじ)かれたからには,便じて當に建業を
逕取すべきです,累世之逋寇を討ちほろぼし,呉人を塗炭に於けるより釋(すく)
いだし,軍旅を振るわせて都に還るも,亦た曠世の一事ではないですか!」王濬
は大いにスび,杜預の書を表呈した。張悌が敗死するに及び,揚州別駕の何ツは
周浚に謂って曰く:「(呉の丞相たる)張悌が全ての呉の精兵を舉げておきなが
ら此れに於いて殄滅してしまったため,呉之朝野には震懾せざるものなど莫くな
っております。今王龍驤(※龍驤将軍である王濬のこと)は既にして武昌を破り,
勝ちに乘じて東下してきており,向う所輒ち克ち,土崩之勢いが見えております。
謂わんとするのは宜しく速やかに兵を引きつれて渡江し,直ちに建業を指すべき
ということです,大軍が猝至すれば,其の膽氣を奪うことでしょうから,戰わず
して禽える可きこととなりましょう!」周浚は其の謀を善しとし,使いして王渾
に白させることとした。何ツ曰く:「王渾どのは事機に暗く,而して欲すのは己
を慎み咎を免れんとすことですから,必ずや我に從わざることでしょう。」周浚
は固く使いをやって之を白させたが,王渾は果たして曰く:「受けし詔命は但だ
たんに江北に駐屯し以って呉軍に抗すようにとの令であって,輕がるしく進ま使
まざるものであった。貴州は武なりと雖も,豈に能く獨りで江東を平らげえよう
か!今は命を違えて,勝ったとしても多いとするに足りまいが,若し其の勝たざ
るなら,罪を為すこと已にして重くなろう。且つ詔には龍驤を令て我が節度を受
けさせよとある,但だたんに當に君に舟楫を具えさせ,一時にして俱に濟らんと
すのみとしよう。」何ツ曰く:「龍驤どのは萬里之寇に克ち,既成之功を以って
して來たりて節度を受けるのですが,そのようなことは未だ之れ聞かざることで
す。且つ明公は上將と為っております,見えれば可として而して進みましょう,
豈に一一(いちいち)詔令を須つこと得るべきでしょうか!今此れに乘じて渡江
すれば,十全にして必ず克つものです,何をか疑い何をか慮って而して淹留した
まま進まざるのですか!此れ鄙州の上下が恨恨とする所以ですぞ。」しかし王渾
は聽きいれなかった。

64 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 22:06:01
 王濬が武昌より流れに順って建業へ徑趣した,呉主は游撃將軍の張象を遣わし
舟師萬人を帥させて之を御がせんとした,張像の衆は旗を望むと而して降ってし
まった。王濬の兵甲は長江を滿たし,その旌旗は天を燭らし,その威勢は甚だ盛
んとなって,呉人は大いに懼れることとなった。呉主之嬖臣であった岑昏は,傾
險諛佞を以ってして,位を九列に致し,功役を興すことを好んだため,衆が患い
苦しむところと為っていた。晉兵の將に至らんとするに及び,殿中の親近數百人
が叩頭して呉主に於いて請うて曰く:「北軍は日ごと近づいておるのに而して兵
は刃を舉げずにおります,陛下には將た之を如何せんか?」呉主曰く:「何故か
?」對して曰く:「正しく岑昏を坐すのみです。」呉主は獨り言った:「爾が若
かば,當に奴隷を以ってして百姓に謝すべきだというのか!」衆は因って曰く:
「唯!(それだけです)」遂に並び起って岑昏を収めた。呉主は駱驛して追い止
めんとしたが,已に之を屠ってしまったあとであった。
  陶浚は將に郭馬を討とうとして,武昌に至ったところで,晉兵大いに入るを
聞いたため,兵を引きつれて東へ還った。建業に至ると,呉主は引見し,水軍の
消息を問うた,對して曰く:「蜀の船は皆小さいものです,今二萬の兵を得て,
大船に乗って以って戰ったなら,自ら之を破るに足ることでしょう。」是に於い
て衆を合わせ,陶浚に節鉞を授けた。明くる日當に出發すべきとなると,其の夜,
衆の悉くが逃れ潰えてしまった。
 時に王渾、王濬及び琅邪王の司馬[人由]は皆が近境に臨んでいた,呉の司徒の
何植、建威將軍の孫晏は悉く印節を送り詣でて王渾に降ろうとした。呉主は光祿
勳の薛瑩、中書令の胡沖等の計を用い,使者を分け遣わして書を渾、濬、伷に於
いて奉じさせ以って降らんことを請うた。又た其の群臣に書を遣わして,深く自
らに責を咎めて,且つ曰く:「今大晉が四海を平らげ治めんとしている,是れぞ
英俊が展節之秋であろう,勿以移朝改朔,用損厥志。」使者が先ず璽綬を琅邪王
[人由]に於いて送った。壬寅,王濬の舟師が三山を過ぎると,王渾は信書を遣わ
して王濬を要して(軍事行動を拘束して)暫く事を論じて過ごそうとしてきた;
王濬は帆を挙げ直ちに建業を指すと,返報して曰く:「風が利ろしいゆえ,泊ま
るを得ませんな。」是日,王濬の戎卒は八萬となっており,方舟は百里になんな
んとし,鼓噪して石頭に於いて入っていった,呉主の孫皓は面縛して輿櫬し,軍
門に詣でて降ってきた。王濬は縛めを解き櫬(かせ)を焚きすて,延請相見。
其の圖籍を収めてみると,克ちとった州は四つ,郡は四十三,戸は五十二萬三千,
兵二十三萬であった。

65 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 22:12:08
 朝廷は呉が已に平げられたと聞くと,群臣は皆が慶賀し壽(ことほぎ)を上ら
せてきた。帝は爵を執って涕を流して曰く:「此れは羊太傅の功である。」驃騎
將軍の孫秀は慶賀せず,南を向いて流涕して曰く:「昔討逆(将軍孫策)さまが
弱冠にして一校尉を以って創業せられたものを,今や後の主が江南を挙げて而し
て之を棄てさってしまう,宗廟も山陵も,此れに於いて廃墟と為ってしまおう。
悠悠たるかな蒼天よ,此れ何をか人たらんか!」
 呉の未だ下らざるや,大臣は皆が以為らく未だ輕がるしく進む可からずとした
が,獨り張華のみは堅く執って以為らく必ずや克ちましょうとした。賈充は上表
して稱えた:「呉の地は未だ悉く定む可からず,方に夏になれば,江、淮の下流
地域は濕くなるため,疾疫が必ずや起こりましょう,宜しく諸軍を召して還らせ,
以って後圖と為さしむべきです。張華めを腰斬すると雖も以って天下に謝すに足
らざることですぞ。」帝曰く:「此れは是れ吾が意であって,華は但だたんに吾
と(意見を)同じにしているだけだ。」荀勖が復た奏上し,宜しく賈充の表の如
くすべしとしてが,帝は從わなかった。杜預は賈充が罷兵を乞う奏上をしたと聞
きつけ,馳せて表し固く爭わんとした,使いが轘轅に至ったところで而して呉が
已に降った。賈充は(見通しが外れたことを)慚じ懼れ,闕に詣でて罪を請うた
が,帝は慰撫して而して不問とした。
 夏,四月,甲申,詔あって孫皓に爵を賜り歸命侯とした。
 乙西,大赦し,改元した。大いに酺すこと五日。使者を遣わし分けて荊、揚に
詣でさせ撫慰させた,呉の牧、守已下は皆更め易えることせず,其の苛政を除く
こととし,悉く簡易に従うようにとしたため,呉人は大いにスんだ。
 滕修は郭馬を討って未だ克てずにいたおり,晉が呉を伐さんとしていると聞き,
衆を帥して難に赴かんとした,巴丘に至ると,呉亡ぶと聞き,(衣服を)縞素に
して流涕し,還ると,廣州刺史の閭豐、蒼梧太守の王毅と各おの印綬を(晋へ)
送って降らんことを請うた。孫皓は陶璜之子の融を遣わして手づからの書を持た
せて陶璜を諭すと,陶璜は涕を流すこと數日,亦た印綬を送って降った;帝は皆
其の本の職に復させた。
 王濬之東下するや,呉の城の戍は皆が風を望んで款附してきたが,獨り建平太
守の吾彦だけは城を嬰して下らず,呉が亡んだと聞いてから,乃ち降った。帝は
吾彦を以って金城太守と為した。

66 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 22:17:48
 初め,朝廷では孫秀、孫楷を尊寵していた,以って呉人を招來せんと欲しての
ことであった。呉が亡ぶに及んだ,孫秀(の位階)を降して伏波將軍と為し,
孫楷を渡遼將軍と為した。
 琅邪王の司馬[人由]は使いを遣わして孫皓及び其の宗族を送りだし洛陽に詣で
させた。五月,丁亥朔,孫皓が至ると,其の太子である瑾等と泥頭面縛し,東陽
門に詣でた。詔があって謁者を遣わして其の縛めを解かせ,衣服、車乘、田三十
頃を賜り,歳ごとに錢谷、綿絹を給わること甚だ厚かった。孫瑾を拝して中郎と
為し,諸子で王と為っていた者は皆郎中と為し,呉之舊望は,才に隨って擢敘し
た。孫氏の將吏で渡江してきた者は十年を復し,百姓は二十年を復すこととした。
 庚寅,帝は軒に臨み,文武で位に有るもの及び四方の使者をあつめ大會したが,
國子學生は皆預ること焉れなったのである。歸命侯の孫皓及び呉の降人を引見す
ることとなった,孫皓は登殿すると稽顙した。帝は孫皓に謂って曰く:「朕は此
れに座を設けて以って卿を待つこと久しかったぞ。」皓曰く:「臣も南方で,亦
た此れに座を設けて以って陛下を待っておりました。」賈充が孫皓に謂って曰く
:「聞けば君は南方に在りしおり人の目を鑿ち,人の面皮を剥いだというが,此
れは何の刑に等しいかな?」皓曰く:「人臣で其の君を弑し奸回不忠に及ぶ者が
有れば,則ち此の刑を加えるのみですな。」賈充は默然として甚だ愧じいったが,
而して孫皓の顔色は怍すところ無いものであった。
 帝は從容として散騎常侍の薛瑩に孫皓が亡びし所以を問うた,對して曰く:
「皓は小人を暱近し,刑罰は放濫であったため,大臣も諸將も,人は自らを保て
ませんでした,此れが其れ亡びし所以であります。」它日,又た吾彦に問うたと
ころ,對して曰く:「呉主は英俊で,宰輔は賢明でありました。」帝は笑って曰
く:「是れに若かば,何故に亡んだのだ?」吾彦曰く:「天は永らえるさまと終
わりのさまを祿しておるもので,歴數には屬すものが有るものです,故に陛下の
為に禽われとなっただけです。」帝は之を善しとした。

67 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 22:25:28
 王濬之建業に入るや,其の明くる日,王渾が乃ち長江を濟ってき,以って王濬
が己を待たずに至り,先んじて孫皓の降伏を受け入れていたため,意は甚だ愧じ
忿って,將に王濬を攻めようとした。何攀が王濬に孫皓を送りだして王渾に与え
るよう勧めたため,是に由って事は解けるを得た。何ツは以って王渾が王濬と功
績を爭ったために,周浚に箋を与えて曰く:「《書》にあり、貴ばれるは克讓で
あると,《易》にあり、大いに謙れば光かがやけりと。前に張悌を破ったおり,
呉人は氣を失い,龍驤どのは之に因って,其の區宇を陷しいれた。其の前後を論
ずるに,我らのほうは實(まこと)は師を緩ませてしまい,既に機會を失ったこ
と,事に於いて及ぶものではない,而るに今方に其の功を競っている;彼が既に
して聲を吞まずにいるのだから,將に雍穆之弘を虧し,矜爭之鄙を興すこととな
ろう,斯かる愚情なりし所は(吾の)取らざることだ。」周浚は箋を得ると,即
ち王渾を諫め止めた。しかし王渾は納れず,表して王濬は詔に違えて節度を受け
なかったとして,その状を罪とするを以って誣した。王渾の子の王濟は,常山公
主を尚んでおり,宗黨が強く盛んであった。(その為そのことを慮って)有司が
これを奏して檻車を請うて王濬を征すようにとしたが,帝は弗(けっ)して許さ
ず,但だたんに詔書を以って王渾の命に従わず,制を違えて利に昧であったこと
を以って王濬に(功績を?)謙譲するよう責めただけであった。それについて王
濬は上書して自らを理めて曰く:「前に詔書を被りましたおりには,臣を令て直
ちに秣陵へ造さしむものとし,又た令があり太尉である賈充さまの節度を受ける
ようにとのことでした。臣は十五日を以って三山に至りまして,王渾の軍が北岸
に在るのに見えたため,書を遣わして臣を邀えさせました;臣は水軍でありまし
たから風が発して勢いに乘っておりましたうえ,賊の城が逕造しておりましたか
ら,船を回す縁るべが無く軍を過ごすこととなりました。そうして臣は日中を以
って秣陵に至ったわけですが,暮には乃ち王渾が下せし所の當に節度を受けるべ
し,臣を令て明くる十六日には領せし所を悉く將いて還って石頭(城)を圍むよ
うに欲しているとの符を被りました,それには又た索きつれてきた蜀兵及び鎮南
諸軍らの人名を定め見ておくようにともありました。臣以為らく孫皓の已にして
來り降ったからには,空しく石頭を圍む由縁など無いものでしょう;又た,兵と
人を定め見ておくこと(※名簿を作成して作戦に参加した人員を確定する作業)
など,倉猝として就くを得る可からざるもので,皆當今之急に非ざることです,
とても承り用いる可きでないもの(命令)であって,敢えて明制を棄てること忽
れというに非ざることでございましょう。孫皓と衆が親しきより叛き離れてしま
ったことは,匹夫が獨りだけで坐にあって,雀鼠が生を貪って,苟くも一活を乞
いねがうのみといったありさまでありました,而るに江北の諸軍はそうした虚実
というものを知らずに,(呉を攻略して)縛り取ること早くせず,自ら小さな誤
りを為していたのです。臣が至って便じて(呉の降伏という成果を)得てしまっ
てから,更めて怨み恚りを見るようなことをしています,並べて云いますが:

68 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 22:35:46
『賊を守って百日たち,而して他の人を令て之を得させしむ。』というものです。
臣は愚かしくも以為らく君に事(つか)える道とは,苟しくも社稷に利ろしくあ
るもので,死生は之を以ってするもの。若し其の嫌疑を顧みて以って咎責を避け
んとするのなら,此れぞ是れ人臣にあるまじき不忠之利というものであり,實(
まこと)に明主からうけられる社稷之福に非ざるものであるでしょう。」
 王渾は又た周浚に書を騰げて云った:「王濬の軍は呉の寶物を得た。」又た
云った「王濬の牙門將である李高が放火して孫皓の偽宮を燒いてしまった。」
王濬は復た表して曰く:「臣は孤り根でありまして獨りだけで立っております
から,強宗から恨みを結ばれております。夫れ上を犯し主を干す,其の罪は救
わる可し;貴臣から乖れ忤らえば,禍ちは測らざること在る、といいます。偽
の郎將である孔攄が説明しました:去る二月に武昌が守りを失い(失陥し),
水軍が行き至ることとなって,孫皓は石頭に行くことを案じて還ってきました,
そうしたところ左右の人は皆が刀を跳ねあげて大呼して云ったといいます:
『要して當に陛下の為に一えに死戰して之を決すべし。』孫皓の意は大いに喜
び,意うに必ずや然ること能うるものとし,便じて金寶を盡く出して以って之
に賜り與えました。小人は状など無いもの,得るや便じて持ちだし逃走してし
まったのです。そこで孫皓は懼れ,乃ち降首を圖ることとなったとのことです。
そうして降使が去るに適うや,左右のものが財物を劫奪し,(孫皓の宮殿にい
た)妻妾を略取し,火を放って宮殿を燒きました。孫皓は身を逃れること竄首
のごとくし,脱けだせず死すことを恐れたのです。そこに臣が至って,參軍の
主だった者を遣わして救うこととし其の火を断っただけでございます。周浚が
先んじて孫皓の宮殿に入り,王渾も又た先んじて孫皓の舟に登りました,臣が
入り觀たことは,皆其の後に在ったものです。孫皓の宮之中は,乃ち坐す可き
席とて無くなっておりました,若し遺された寶が有ったのだとしても,それは
則ち周浚と王渾が先に之を得たはずでございます。等雲臣屯聚蜀人,不時送皓,
欲有反状。又た呉人を動かしてしまうことを恐れてか,臣に皆當に誅殺すべき
であるとか,其の妻子を(人質に)取るべきであるとか言ってきましたが,其
れ亂を作して,私忿を騁すを得んと冀うものでありました。謀反は大逆である
ものですが,尚も以って(大赦を/詳しい取り調べが)加えられるに見えるも
のです,其の餘りの謗りなど□沓というものです,故(もと)より其れ宜しく
すべきのみでございましょう。今年は呉を平(定)なさいましたからには,誠
に大慶を為したことでございます;臣之身に於けることについては,(慶年で
はない翌年にでも)更めて咎累を受けたくぞんじます。」

69 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 22:43:06
 王濬が京師に至ると,有司が奏上して王濬は詔に違えて,大いに不敬である,
請いねがわくば廷尉に付けて罪を科りたいとしてきた;しかし詔がくだって許
されなかった。又た奏上があり王濬は赦免後に賊船百三十五艘を燒きすてたか
ら,輒ち敕令をくだして廷尉に付けて禁推するようにとしてきた;しかし詔が
あって推すこと勿れとなった。
 王渾、王濬が功を爭って已まなかったため,帝は守廷尉であった廣陵(出身)
の劉頌に命じて其の事を校ずようにとしたところ,王渾を以って上功と為し,
王濬を中功と為してきた。(その歪んだ校じかたに)帝は以って劉頌は法を折
り理を失ったとして,京兆太守に左遷した。
 庚辰,賈充の邑を増して八千戸とし,王濬を以って輔國大將軍と為し,襄陽
縣侯に封じた;杜預は當陽縣侯と為った;王戎は安豐縣侯と為った;琅邪王の
司馬[人由]の二子を封じて亭侯と為した;京陵侯である王渾の邑を揩オて八千
戸とし,爵を進めて公と為した;尚書であった關内侯の張華は封を廣武縣侯に
進められ,増邑して萬戸となった;荀勖は以って典詔命功を専らにしたとして,
一子を封じて亭侯と為した;其の餘りの諸將及び公卿以下は,賞賜に各おの差
が有った。帝は以って呉を平げたため,策をくだして羊祜の廟に告げさせると,
乃ち其の夫人である夏侯氏を封じて萬歳郷君とした,食邑は五千戸である。
 王濬は自らを功大なるを以ってしながら,而して王渾父子及び黨與の為に挫
抑される所となったことから,進見する毎に,其の攻伐之勞及び枉げられるに
見えた之状況を陳べ,或るときには忿憤に勝てず,逕出するにあたって辭すこ
となかったほどであったが;帝はこと毎に之を容恕したのである。益州護軍の
范通は王濬に謂って曰く:「卿の功は則ち美しいが,然りながら恨む所以は美
しきに居る者として未だ善を盡くしておりませんな。卿は旋旃せる日には,角
巾私第し,口不言平呉之事(呉平定の事について自分では言わないが宜しい),
そして若し問う者が有れば,輒ち曰く:『聖人之コがあって,また群帥之力めに
よるもの,老夫が何をか之に力めたこと有ったろうか!』とするのです。此れぞ
藺生が廉頗に屈した所以,王渾も愧じること無くすこと能うでしょうな!」王濬
曰く:「吾は始めケ艾之事で懲らしめられたおり,禍ちが身に及ぶことを懼れて,
無言でいることを得なかった;其終不能遣諸胸中,是れが吾が褊である。」時の
人は鹹(みな)以って王濬の功が重いのに報われたことが輕かったため,之が為
に憤邑したのである。博士の秦秀等が並んで上表して王濬之屈辱を訟えたため,
帝は乃ち王濬を遷して鎮軍大將軍とした。王渾が嘗て王濬に詣でたおり,王濬は嚴
しく護衛を設け備えてから,然る後に之に見えた。

70 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 22:51:58
 杜預は襄陽に還ると,以為らく天下は安んじたと雖も,戰を忘れれば必ずや
危うしとして,乃ち講武に勤め,戍守を厳しくしておくよう申しわたした。又
た滍、淯から水を引きこみ以って田を浸すこと萬餘頃,揚口を開いて零、桂之
漕に通じさせたため,公私は之をョりにした。杜預は身づからは馬に跨れず,
射撃は札を穿ざるものであったが,而して兵を用いて勝ちを制すことにかけて
は,諸將で及ぶもの莫かった。杜預が鎮に在ったおり,數(たびた)び洛中の
貴要へ餉遺をおこなっていた;或るひとが其の故を問うと,杜預曰く:「吾但
だ害されることに為るを恐れるのみ,益を求めず。」
 王渾は征東大將軍に遷り,復た壽陽を鎮めた。
 (呉が平定されてしまってから)諸葛靚は逃竄したまま出なかった。帝は諸
葛靚と旧縁が有り,諸葛靚の姊が琅邪王妃と為っていたことから,帝は諸葛靚
が姊の間に在ると知り,因って就きて見えること焉れならんとした。諸葛靚は
廁に逃れたが,帝も又た之に逼り見え,謂って曰く:「不謂今日復得相見!
(今日復た相見えることを得たと丕いに謂うところだな)」諸葛靚は涕を流し
て曰く:「臣は漆身皮面すること能わず,復た聖顔を睹すことになり,誠に為
に慚じ恨みいるしだい!」詔がくだされて以って侍中と為そうとしたが;固辭し
て拜さず,郷里に於けるに歸ると,終身朝廷を向かずに而して坐したという。
  六月,復た丹水侯睦を封じて高陽王と為した。
 秋,八月,己未,皇弟延祚を封じて樂平王と為したが,尋くして薨じた。
 九月,庚寅,賈充等が天下一統なったことを以って,屢ねて封禪を請うてき
たが;帝は許さなかった。
 冬,十月,前將軍で青州刺史である淮南(出身)の胡威が卒した。威は尚書
と為ると,嘗て時政之ェを諫めたことがあった。帝曰く:「尚書郎以下,吾の
假借する所など無いのだが。」胡威曰く:「臣が陳べし所は,豈に丞、郎、令
史に在るものでしょうぞ,正しく臣等の如き輩に謂うもので,始めるに王化を
肅し法を明らかにするを以ってす可きだけですぞ!」
 是の歳,司隸が統めし所の郡を以って司州を置くこととなった,凡そ州は十
九,郡國は一百七十三,戸(数)は二百四十五萬九千八百四十である。

71 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 22:57:33
 詔に曰く:「昔漢の末より,四海は分かたれ崩れおちてから,刺史は内では
民事に親しみ,外では兵馬を領すこととなってきた。今天下は一つと為ったの
だから,當に干戈を韜戢すべきである,刺史は職を分かつこと,皆漢氏の故事
の如くとす;悉く州郡より兵をとり去り,大郡には武吏百人を,小郡には五十
人を置くものとす。」交州牧の陶璜が上言した:「交、廣州は西すこと千里を
數えるものでして,賓屬せざる者は六萬餘戸もあるというのに,官役に服し従
うに於けるに至るものは,才五千餘家でございます。二州は脣齒でありまして,
唯だ兵だけが是れ鎮めおけるものです。又た,寧州の諸夷が,上流で接し據っ
ておりまして,水陸並び通じておりますから,州兵は未だ宜しく約損したりし
て,以って單虚を示させるべからざることです。」僕射の山濤も亦た言った
「宜しく州郡より武備をとり去るべからず」。しかし帝は聽きいれなかった。
永寧以後に及んで,盜賊が群れ起つと,州郡には備えが無かったため,禽制す
こと能わず,天下は遂に大いに亂れることとなったこと,山濤が言いし所の如
くとなった。然るに其後に刺史は復た兵民之政を兼ねることとなって,州鎮は
愈すます重くなったのである。
 漢、魏以來,羌、胡、鮮卑で降った者は,多くが之を塞内の諸郡に處すこと
となっていた。其の後になり數(たびた)び忿りや恨みに因って,長吏を殺害
し,漸いに民の患いと為ってきた。侍御史であった西河(出身)の郭欽が上疏
して曰く:「戎狄が強_でありますこと,古を歴してより患いを為しております。
魏の初めには民が少なかったことから,西北の諸郡は,皆戎居と為りまして,内
及び京兆、魏郡、弘農は,往往にして之が有るわけです。今は服從していると雖
も,若し百年之後に風塵之警が有れば,胡騎は平陽、上黨より三日もせずに而し
て孟津に至ることでしょう,北地、西河、太原、馮翊、安定、上郡は盡くが狄の
庭と為りはてましょう。宜しく平呉の威と,謀臣や猛將の方略を及ぼすべきであ
ります,漸いに内郡の雜胡を邊地に於けるに徙(うつ)して,四夷から出入之防
を峻別(峻拒)し,そうして先の王たちがおこなった荒服之制を明らかとなさい
ますように,此れぞ萬世の長策というものです。」帝は聽きいれなかった。

72 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 23:07:05
ここまでで280年終わり。
三国志好きな俺が資治通鑑晉紀を呉が滅亡するまで訳し続けるスレ\(^o^)/オワタ

晉紀3の残りはいずれ近いうちに件の場所にうpします。
それではこれにて散会となります。御来客の皆さまは此方より御退出下さい。
なお、二次会は模様直しの後に引き続きこのスレで行われる予定です。
二次会ご参加の皆さまは当三国志好きが1を弄ぶスレをお楽しみ下さい。

73 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 23:23:58
早い、早いよニセクロたん!

気が向いたら参加しようと思ってたが、
翻訳済みが265年の分しかなかった俺\(^o^)/

74 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 23:28:13
>>73
独り翻訳無双おいしいです(^q^)

こうして訳してみると王渾、すげーDQNだなーとか思います

75 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/16(火) 12:04:21
>>74
おつかれー

とは言え、王濬もお世辞にも褒められた人格じゃないし、
上に立つ司馬炎と賈充もDQN。
杜預や張華の人格が際だっちゃうよ。
でも、小者である自分からしたら王渾の肩を持っちゃうかな〜
抜け駆けした方より、された方にシンパシーを感じてしまう。
当時、2chと言わず新聞やTVがあれば国を挙げての論争になったと思う。

76 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/16(火) 17:28:28
司馬炎は凡庸なだけで人格はまだマシだろ。
直言の士を殺さなかった。
権臣に賄賂贈ってた杜預もアレだし
皇太子を守れなかった張華もアレ。

77 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/16(火) 19:18:16
A 漢、唐、元、清
B 宋、明
C 新、晋、隋

78 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/18(木) 00:21:33
>>75
なるなる。
ただねー、最初に部下からこのまま王濬に乗っかって功績ゲットしちゃいなよと言われた時は
リスクを取りたくない一心で勅令を盾に動かなかったというのに、いざ王濬が呉を落としちま
いそうだと見るや、王濬の足は引っ張るわあることないこと讒言して王濬を罪に陥れようとす
るわ、それもすぐバレる嘘ついてまでしてってのはどうみても立派なDQNです、本当にありが
とうございますって感じでどうもね。
杜預みたいに上手く王濬を持ち上げて兵を大量に供出してやって勝てば功績にそのまま
相乗りし、負けたら大兵の供出を受けながら采配をしくじった王濬の所為って形に上手く
もっていけばよかったのにとか思うんだが、そこは何か派閥間でのいろいろな軋轢でも
あったんかな

79 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/18(木) 00:29:28
個人的な経験だけで言うと、やはり漢文は量こなすべきと思う。
わからん所にいつまでも躓いてるより、ごっそり飛ばしてガンガン訳してくべき。
脳みそは筋肉。量をこなす=筋トレかつ実戦。
あと後漢書、三国志、晋書、通鑑はそれぞれに書いた人のその時代性に束縛された
個性的で癖がある文体で書かれてるから読みやすいものから読んでくといいかもね。

80 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/18(木) 00:54:11
そして話はまるで亜空間の彼方にぶっ飛ぶようで悪いんだけどさ、
歳星と太歳の巡行に関して、移動する12分野の名前と位置関係とか
あと何処でどういう線分を引いて線対象にして動かしてるのかとか
よく分からなくなったので、教えてくれる人いませんか?

いやまぁそれが何に関係するのかと言われると、別スレで過去に発言した
曹叡の年齢に絡んだ問題についての続きの続きというか、そういうのを
色々個人的に検証するのにご教授頂きたいってことなんだけど。
どこいけば教えて貰えるかな?
ちょっと昔なら永遠の青氏とかこの板に顔だしてたんで知ってる人とか
紹介して貰えたんだろうけど、今もうこの板探しても居ないっぽいし。

81 :小銀玉@ ◆Gay/Ho..tI :2010/02/27(土) 22:51:24
http://www.otona-column.com/www/index.php?module=User&action=SerialPopup&id=555

ググればいい邪魔意か

それともググっても不足か?

82 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/02(火) 19:53:30
wikiの中国の暦法カテゴリを書いた人なんか詳しそうだな。
5年以上前にできた記事なんで、コンタクトなんか取れそうもないけど。

83 :無名武将@お腹せっぷく:2010/03/20(土) 08:38:58
>>74
やっと全部読み終わったw
おつでしたー

84 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/19(月) 19:25:40
続きもキボンヌ

85 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 13:43:14
>>81
エラー: このリンクは無効です。

86 :無名武将@お腹せっぷく:2010/07/25(日) 09:35:30
>当時、2chと言わず新聞やTVがあれば国を挙げての論争になったと思う。

つ「洛陽の紙価を高める」


87 :無名武将@お腹せっぷく:2010/08/01(日) 15:00:41
左思と左慈の区別がつかない今日この頃

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